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2012.12.17 高レベル放射性廃棄物の最終処分場について
 誰が政権をとろうと、生物に有害で、環境を破壊する事故を引き起こし、高コストの原子力発電を行う必要がないことは明らかである。しかし、今まで原子力発電を行ってきたことで、すでに使用済核燃料や廃炉時に出る高レベル放射性廃棄物は大量に溜まってしまっているため、高レベル放射性廃棄物最終処分場の問題は重要だ。

 まず、*1に書いてあるように、日本では、(私の提案により)高レベル放射性廃棄物を地下数百メートルの安定した地層に埋める政策を採るとしてきたが、これは、放射性廃棄物を完全に人間界と環境から隔絶して保管し続けることが目的であった。しかし、それでも、最終処分地の公募に応じる自治体はなかったし、まれに首長が手を上げると住民からリコールされた事実がある。

 これに対し、日本学術会議が「総量管理」として、高レベル放射性廃棄物の総量に上限を設けたり、増加分を厳格に抑制したりする概念を出したそうだが、放射性廃棄物は、総量が多い時のみ、又は、増加分だけが生物に害を及ぼすわけではないため、これは論理的まやかしだ。日本学術会議というのは、いつものとおり適格性を欠く専門家の集まりではないのかと思ってしまう。さらに、「暫定保管」は、取り出し可能な状態で数十~数百年間保管するという考え方だそうだが、ゴミに、どれだけ膨大な費用をかけて保管・管理し続けると言うのか。この保管・管理料も税金から支払うのだから、これ以上、現在及び将来の世代に、原発で膨大な負担を残すのはやめることこそ、未来に責任ある政治だ。

 また、*2、*3のように、国有林だから交渉がいらないとばかりに、水源近くや地下水に触れる場所で高レベル放射性廃棄物を保管しようと考えるとは、環境省に不信任を突き付けざるを得ない。どういうセンスをしているのだろうか?候補地に選ばれた高萩市、矢板市、近隣のさくら市、塩谷市、高根沢市の心配は当然であり、風評被害ではなく実害があるため、市民は頑張って欲しい。

 では、高レベル放射性廃棄物の最終処分は、どうすればよいのか? わが国のような地震国で温暖な場所では、高レベル放射性廃棄物を地下数百メートルの安定した地層に埋めても、地下水に触れる危険性があり、10万年先にはどうなっているかわからない上、高コストであるなら、適地は国内には見つからないので、10万年以上地殻変動がなく、地下水は凍っていて流れない、永久凍土のシベリアででも、生物界から完全に遮断して地層処分させてもらうほかないだろう。それには、防衛上の配慮も必要だが。

 しかし、そもそも、放射性物質の扱いにここまで無頓着な人々が、高レベル放射性廃棄物の最終処分の見通しもなく、安易な発想で放射性物質を扱う判断をしてきたこと自体、子どもの火遊びか無免許運転と同じレベルだと、私は言いたい。

*1:http://mainichi.jp/opinion/news/20121105k0000m070103000c.html
(毎日新聞社説 2012年11月5日) 放射性廃棄物 処分政策に向き合う時
 原発から出る高レベル放射性廃棄物をどこに処分するか。これまで延々と先送りしてきたテーマである。しかし、福島第1原発の事故を経て、もはや目をつぶり続けるわけにいかないことが浮き彫りになった。政府は9月中旬に公表したエネルギー・環境戦略で、30年代に原発ゼロをめざしつつ、使用済み核燃料の再処理路線も維持するという矛盾した政策を打ち出した。これに対し、私たちは再処理をやめるべきだと主張してきた。ただし、再処理をしようとしまいと、原発を動かす限り高レベル放射性廃棄物は出続ける。原発を止めても、すでに存在する高レベル放射性廃棄物を処分しなくてはならない。本来、これを真剣に検討しなければ原発政策も決められないはずだ。日本では高レベル放射性廃棄物を地下数百メートルの安定した地層に埋める政策を採用してきた。しかし、放射能のレベルが十分に下がるまで数万年かかり、安全に管理できるのか不安に思う人は多い。原子力発電環境整備機構(NUMO)が最終処分地を公募しているが、応じた自治体はない。NUMOの側にも真剣さが感じられない。
 こうした行き詰まりに対応するひとつの方策として参考になるのが、日本学術会議が提案する「総量管理」と「暫定保管」だ。「総量管理」は、高レベル放射性廃棄物の総量に上限を設けたり、増加分を厳格に抑制したりすることを意味する。増え続ける廃棄物に目を背けたまま、全国54基もの原発を稼働させてきた問題を思えば、この考え方を導入する意味は大きい。政府が、「30年代に原発ゼロをめざす」政策を誠実に進めて行く気があるなら、廃棄物の側からもその覚悟を示すべきだ。それが、「口先だけではないか」という国民の不信をぬぐうことにもつながる。「暫定保管」は、取り出しが可能な状態で数十〜数百年間保管するという考え方だ。ある種のモラトリアムで、結局は問題の先送りに過ぎないとの批判はあるだろう。一方で、従来の地層処分が本当に妥当なのか、廃棄物処分の技術的発展が今後ありうるかを真剣に検討する猶予期間と考えることもできる。ただし、その場合には、国民一人一人が自分の問題として継続的に考えていくための工夫が必要になる。学術会議は、これまでの原発政策が電力を消費する「受益圏」と、廃棄物や事故リスクを引き受ける「受苦圏」を生み出してきたと指摘している。「受苦圏」には経済利益を提供することで折り合いをつけてきたが、廃棄物の最終処分問題にはそれを超える知恵が求められている。

*2:http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20121207/CK2012120702000145.html (東京新聞 2012年12月7日) 「最終処分場 撤回を」 4市町区長会 県と県議会に要望書
 高濃度の放射性廃棄物の最終処分場問題で、候補地に選ばれた矢板市と、近隣のさくら、塩谷、高根沢の計四市町の区長会は六日、白紙撤回を求める要望書を福田富一知事と、県議会の高橋文吉議長宛に提出した。要望書は、候補地周辺が農業用水を供給するダムや湧水が豊富な水源地帯で、処分場施設の劣化により地下水などが汚染される可能性や、推定活断層の存在を指摘。「これらに起因する風評被害は、それぞれの懸念が複雑相互に絡み合い、今までより大きなものとなることは必至」と主張している。四つの区長会の役員八人が県庁を訪れ、石崎均環境森林部長と高橋議長に文書を手渡した。矢板市区長会の江部和栄会長は「難しい問題だが、未来を担う子どもたちのためにも白紙撤回をお願いしたい」と話した。 

*3:http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13555831079518  (茨城新聞 2012年12月16日)  高萩の最終処分場問題 白紙撤回求め市民ら2000人、総決起集会
 放射性物質を含む「指定廃棄物」の最終処分場として高萩市の国有林が選定された問題で、市民団体「指定廃棄物最終処分場候補地の白紙撤回を求める高萩市民同盟」(鈴木直登会長)の総決起集会が15日、高萩市の市庁舎跡地で開かれ、市民ら約2千人(主催者発表)が参加し、「最終処分場は永久に安全が確保できない。知恵と行動で候補地の白紙撤回を」などと気勢を上げた。
 市民同盟の鈴木会長は「ダムの上流であること、最終処分場であること、子どもたちの未来を確保するため」の3項目を反対理由に掲げ、計画の白紙撤回に向けた協力を呼び掛けた。次世代の代表として登壇した同市立中2年の女子生徒(14)は「自然を破壊して処分場を建設すれば農業も破綻してしまう。処分場は要らない」。県立高1年の女子生徒(16)は「放射能は次世代に大きな影響を残す。私たちの未来を消さないでください」と涙ながらに訴えた。
草間吉夫高萩市長は「7万人以上の反対署名が集まったことを誇りに思う。国に白紙撤回を求め、ゼロからのスタートを要望する」と強調した。集会には、同じく候補地となった栃木県矢板市の遠藤忠市長や「矢板市民同盟会」(小野崎俊行会長)のメンバーら約200人も駆け付けた。遠藤市長は「環境省の選定方法は全く拙速、稚拙で、人の命や生活環境を守ることを無視している」と述べた。最後に、参加者全員で「白紙撤回」と書かれた紙を掲げながら「頑張ろう」を三唱し、結束して闘うことを確認した。高萩市、矢板市などは26日の新内閣発足を受け、27日に環境省へ白紙撤回の要望書を提出する予定。

| 原発::2012.10~12 | 11:44 AM | comments (x) | trackback (x) |
2012.12.17 小沢一郎代議士が無罪でもメディアの謝罪報道がなかったことに呆れたとともに、メディアのさらなる排除運動に抗議する。 ← これで、まともな民主主義ができるわけがないから。
 *2に書かれているとおり、小沢一郎代議士の事件は、メディアが憲法21条に定められている表現の自由を、憲法1条の主権在民や憲法11条の基本的人権の尊重を害して乱用してはならないという悪い事例として、法学・政治学・メディア学の歴史に残すべきだと、私は思っている。なぜなら、起訴された(推定無罪)だけで、あれだけ有罪であるかのように繰り返し報道し、小沢氏が首相になる機会を奪った上、民主党を分裂させ、日本の政治に大きな影響を与えたにもかかわらず、無罪判決が出た後は、殆ど無視してその総括をせずに、メディアには居直りとさらなる排除の論理が散見されるからである。

 この小沢事件は、2009年3月から始まり、検察審査会を通じた強制起訴による小沢裁判という形で3年半も続き、メディアによる「小沢氏=黒」の印象操作で、国民が選択した民主党政権を機能させずに分裂させたのだから、小沢代議士に対する東京高裁の無罪判決確定後は、メディアは、誤った報道を繰り返して国民を欺き民主主義を機能させなかったこと、及び、小沢代議士に対して人権侵害を与えたことに対して謝罪した上で、原因分析をして二度と同じことを起こさないようにすべきだった。

 なお、公認会計士であり、職務分掌を明確に行っており、買収する気など毛頭なかった真っ白の私でさえ、2009年8月の総選挙では、アルバイトの人にビラ配りをさせて日当を支払ったのは「買収(?!)」だなどと言って捜査され、それを新聞・テレビでしつこく報道された結果、GoogleやYahooに、そのような悪い印象の記事や検索結果が並んで掲載され、「広津素子=黒か悪か馬鹿」のイメージをつけられているが、これも、私の人格とは正反対の印象操作をされている人格権の侵害である。

 ちなみに、私自身は、*1の政治資金規正法改正案の骨格を出した人間であり、自分の収支報告書、会計帳簿、領収書等等については、きちんと会計処理を行った上、あらぬ疑いをかけられないよう、法定監査が始まる前で衆議院議員になったばかりの2005年(平成17年)分から公認会計士に任意監査を受けていたくらいなのである。そして、*1については、国会議員に関係する政治団体のみに限ったのは変であり、税金を投入されている団体は、すべて正規の公認会計士監査を受けるのが筋だ。

 つまり、「政治と金」に関する問題も、法律を作って時々刻々と前進しているにもかかわらず、まともな政治家に変な言いがかりをつけて民衆をミスリードすること自体、その関係者の指摘がワンパターンで勉強不足であることの証である。もっと時流に沿った正確な問題点の把握と指摘をすべきだ。

*1:http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/naruhodo01_1.html
(ポイント)平成19年12月、与野党合わせて6つの政党による協議の末、政治資金規正法の改正案が議員立法として提案され、成立した。この改正は、国会議員に関係する政治団体について、政治資金の収支報告が適正に行われること、及び政治資金の透明性を向上させることを目的としたものである。
■登録政治資金監査人による政治資金監査(平成21年分の収支報告書から)
 収支報告書を提出するときは、その支出に関し、あらかじめ、収支報告書、会計帳簿、領収書等などについて、政治資金適正化委員会が行う研修を修了した登録政治資金監査人(政治資金適正化委員会の登録を受けた弁護士、公認会計士、税理士)による政治資金監査を受けなければならない。また、国会議員関係政治団体の会計責任者は、収支報告書の提出に併せて、登録政治資金監査人が作成した政治資金監査報告書を提出しなければならない。

*2:http://www.news-pj.net/npj/kimura/039.html
「時代の奔流を見据えて・・・危機の時代の平和学」
(NPJ通信 2012.11.14 17) 木村 朗 (鹿児島大学教員、平和学専攻)
 権力の暴走とメディアの加担-小沢問題の意味を問う
昨日(2012年11月12日)、検察審査会での2度の起訴相当決議に基づく強制起訴による小沢一郎衆議院議員(「国民の生活が第一」 初代党首・元民主党代表)に対する裁判で東京高裁(小川正持裁判長)は、あらためて無罪判決を言い渡しました。この小沢裁判は、検察審査会での2度の 「起訴相当」決議に基づく強制起訴によって始まりました。そして、東京地裁での1審判決で無罪判決が出たにもにもかかわらず、検察官役を務める指定弁護士による強引な控訴(この控訴自体が法的根拠を欠くとの指摘あり!)によって引き続き行われていたものです。今年9月26日に開かれた控訴審の初公判で、指定弁護士が務める検察側が申請した 「新証拠」 「証人」 がすべて却下されて1日(わずか1時間程度!)で結審したことから、控訴審判決でも無罪判決となる可能性が高いとみなされてその結果が注目されていたところです。そうした流れからすれば、今回の無罪判決自体は予想通りであり、弘中惇一郎氏弁護士が 「思った以上の判決!」 と本判決を高く評価されたのも納得できるところです。
 ただ、私が異常だと思うのは、ほとんど完全無視状態ともいえるテレビ報道の少なさ、新聞各紙の社説での居直り、いまだに政治責任・説明責任・国会証人喚問に固執する野党議員(自民党や公明党だけでなく、共産党なども含む)の姿、民主党現執行部・議員の頬被り、沈黙を続ける弁護士・法学者などの法律家や、平気で無責任な発言を繰り返してきたコメンテーター・専門家の姿勢などです。なぜならば、いま本当に責任を問われなければならないのは、(国家権力を悪用した政治家・官僚・検察官・裁判官だけでなく)他ならぬそうした主張・姿勢をしている人々ではないかと考えるからです。一体そうした人々は、本来ならば日本の総理大臣となるべきであった小沢一郎氏が2度にわたってその機会を奪われ、小沢氏個人だけでなく、日本の政治と日本社会の方向性に取り返しのつかない大きな損失・打撃を与えたことをどのように考えているのでしょうか。
 そもそも、この小沢問題(小沢一郎氏をめぐる「政治とカネの問題」:小沢捜査、小沢事件とも呼ばれる)は、2009年3月の第一ラウンドの西松建設事件から2010年1月の第二ラウンドの陸山会(水谷建設)事件、そして検察審査会を通じた強制起訴による小沢裁判という形で現在まで3年半以上続いてきました。この小沢問題をめぐっては、東京地検特捜部という「史上最強の捜査機関」による、田中角栄氏・金丸信氏という「金権政治家」の流れを継ぐ小沢一郎氏の不正献金疑惑追及という「検察の正義」を前提とする見方が大手マスコミのほとんど一致した論調として毎日のように大量に流され、その流れに乗った形で国会では野党となった自民党などが、この民主党の金権スキャンダル(鳩山由紀夫元首相の政治資金問題を含む)を追及してきたという経緯・背景があります。しかしその一方で、それとはまったく異なる見方、すなわち小沢問題を「検察の正義」を前提として「小沢VS検察」という問題に矮小化するのではなく、「政治とカネの問題」以上に、検察官僚・組織の強権的体質と記者クラブに代表される大手マスコミとの癒着構造が日本の議会制民主主義にとって大きな脅威となっているという、もう一つの世論の流れがインターネット・メディアを中心に提起されてきました。
  評者自身は、すでに2010年3月~4月の時点で後者の視点・立場であることを本NPJ論評において明確にしています。
    ・第二〇回 小沢問題をどう考えるか-検察権力・マスコミ報道との関連で (上)
    ・第二一回 小沢問題をどう考えるか-検察権力・マスコミ報道との関連で (中)
    ・第二二回 小沢問題をどう考えるか-検察権力・マスコミ報道との関連で (下)
 その一連の論評では、冤罪(でっち上げを含む)と報道被害(あるいは情報操作とメディアリテラシ-)という観点から、行政による司法の侵害とメディアの加担、すなわち国家権力(とくに検察権力)による恣意的な権力乱用と、それと一体化・加担したマスメディアによる情報操作・世論誘導による深刻な人権蹂躪がなされていることを明らかにしています。それはまた、そもそもの発端からして、「検察ファッショ」と「メディア・ファシズム」が結合した 「静かな政治クーデター」、すなわち国家権力(とくに検察権力)と大手マスコミが一体化した情報操作・世論誘導によって、 2009年8月の総選挙を通じて成立した鳩山民主党連立政権を打倒する(直接的には2010年夏の参議院選挙で民主党を敗北させる)狙いを秘めた、事実上のクーデターであるとする見方であり、現在でもこうした見方を基本的に変える必要はないというが評者の認識・立場です。
 ここで小沢裁判に話しを戻しますが、上告の理由は重大な判例違反か憲法違反であり、 11月26日の期限までに指定弁護人が上告を行うことはほとんど困難な状況であるとみられます。したがって、今回の判決によって小沢一郎氏の無罪がほぼ確定したといえます。しかし、これによって、2009年3月の西松建設事件以来、3年半ほど続いたいわゆる小沢問題が一応の終結を迎えたわけでは決してありません。なぜなら、この小沢問題で小沢一郎氏を徹底的に糾弾してきた検察・裁判所・指定弁護人・検察審査会に告発した市民といった当事者ばかりでなく、政府(官邸・法務大臣)・民主党反小沢派議員・野党・識者、そしてメディア関係者などの責任が一切問われていないからです。評者がとりわけ酷いと思うのは、今回の小沢裁判(東京高裁二審)での無罪判決に対する大手マスコミの対応です。まず、最初に指摘しておきたいのは、テレビ報道です。(9時のニュースのトップに小沢無罪判決ではなく逗子・ストーカー殺人事件を流した)NHKだけでなく、民放各局もまるで示し合わせたかのようにごく小さな扱いで、控訴審での無罪判決という結果のみを短く報じただけでほとんどコメントを付けないというやり方が多かったように思います。唯一の例外がテレビ朝日の 「報道ステーション」 で、古館伊知郎キャスターがこれまでの報道についての 「反省」 の弁を少しだけ口にし、「非公開」 の検察審査会で浮かび上がった 「民意」 への 「疑問」 を提起していたことが目についたぐらいでした(その古館キャスターはもっと何かコメントを続けようとしたようにも見えたのですが、その途中で急にCMに変えることになったのは何かあったのでしょうか…)。また、新聞の方ですが、なぜか月1回の新聞休刊日と小沢判決の日が重なっていて、当日の朝刊で小沢一郎氏に対する控訴審判決がその日にあることを確認することができなかったのは偶然なのでしょうか。翌日(13日)の新聞各紙の朝刊は、さすがにテレビのように無視・軽視することはできなかったようで、どの新聞も社説とその他の記事で小沢無罪判決を一応報じてはいました。小沢無罪判決はかろうじて一面の片隅におかれていましたが、新聞各紙のその日の紙面のトップは一様に解散・総選挙へという記事一色でした(野田首相が無罪判決当日に “突然” 解散の期日を明らかにし、翌日の新聞各紙の一面がこのようになった理由にも何か隠された意図があるように感じられるのは評者だけでしょうか。石原慎太郎前東京都知事が新党 「太陽の党」 の旗揚げを13日に発表し、総選挙の期日が12月16日の都知事選と期日が重なったというこの間の動きについても同様です)。
 しかし、問題はその報道内容であり、東京新聞や日刊ゲンダイなど一部を除いて、朝日・読売・毎日・日経・産経などの全国紙・中央紙は、ほとんど小沢無罪判決の本当の意味や検察審査会をめぐる検察・最高裁の “闇” に言及することはありませんでした。もちろん、これまでの一連の小沢事件・捜査(西松建設事件、陸山会事件、強制起訴による小沢裁判)をめぐる報道の誤り(国家権力による小沢一郎氏に対する人権蹂躙・人権侵害に加担して報道被害という二次的人権侵害を犯したという “メディアの犯罪”)を、反省・謝罪する姿勢はほとんどみられませんでした。いや、それだけではありません。これまでの誤りに対する自覚と反省が欠如しているだけでなく、そうした批判を無視するかのように完全に居直って、まるで追い打ちをかけるかのように小沢氏に対するさらなる人格攻撃を続けようとする姿勢が顕著にあらわれていたと言えるのではないでしょうか。
 ここで、とくに取り上げておきたいのは、朝日新聞11月13日付の社説です。「小沢氏無罪―政治とカネ、いつまで」 と銘打ったその社説には、これまでの小沢問題についての朝日新聞の異常とも思われる報道姿勢のそのままのかたちで顕著に表れていると思うからです。まず、最初に「追加の証拠調べがなく、結論は予想されていた」 として無罪判決それ自体にあまり意味は無いかのように前置きした上で、その後の 「刑事責任の有無をはなれ、事件は “政治とカネ” をめぐる多くの疑問や不信を招いた」 という小沢事件の "核心“ へと論理を展開しようとしています。また、「金や資産の流れをそのまま明らかにして、国民の不断の監視の下におく」 という政治資金規正法の精神を強調するとともに、「問題となった土地の取引が本来報告すべき年に報告されなかったこと、元秘書が公表を先送りする方針を決め、不動産業者らと調整したこと」 が今回の判決でも認定されとして 「何億円もの動きについて、事実と異なる報告がされていた点に変わりはない」 と結論付けています。
 そして、「捜査や公判を理由に国会での説明から逃げ続け、一審の法廷では“関心は天下国家で、収支報告書は見たこともない”と述べた」ことをあげて、「こうした行いは国民と政治との距離を広げた」と小沢氏を批判しています。しかし、こうした「解説」は、「虚偽記載」の違法性を知ったうえで秘書と「共謀」して「疑惑」のある4億円を人目につかないように隠そうとしたのか、という控訴審の中心的な争点とは直接かかわりのないものです。また1審・2審と続いてきた小沢裁判の中で明らかとなった捜査報告書の「捏造」などの、検察の暴走と検察審を取り仕切る最高裁(事務局)の"闇“には一切触れようとしていない点は実に不可解です。そして、「その自覚と反省を欠いたまま、新しい政党をつくって“第三極”の結集を訴えたとしても、広範な支持を得るのはむずかしいだろう」と小沢氏の最近の政治活動にも「干渉」しようとする姿勢はあまりにも異常であるといわざるを得ません。こうした姿勢は、小沢氏個人に対する名誉毀損と人権侵害であるばかりではなく、公党(「国民の生活が第一」)に対する「選挙妨害行為」以外のなにものでもありません。この社説に見られるような、より本質的な問題から国民(読者)の目をそらさせ、重大な権力犯罪の隠蔽に手を貸すだけでなく、日本の将来にとって大きな影響力をもつ特定の有力政治家を、根拠の薄い「疑惑」で執拗に攻撃し続ける朝日新聞の「異常性」 は、次にご紹介する同じ日に出された東京新聞の社説と比較すればいっそう際立つことになります(朝日新聞の 「劣化」については永田町異聞さんのブログ「メディアは二審無罪までの小沢報道を自ら検証せよ。」を参照)。
 それに対して13日付の東京新聞の社説は、「小沢代表無罪 検察の“闇”を調べよ」と真正面から検察問題をあげており、「小沢氏無罪―政治とカネ、いつまで」と題した朝日新聞との姿勢の違いが一目瞭然です。具体的にその内容をみていくことにします。冒頭から 「問題は検察が市民の強制起訴を意図的に導いた疑いが晴れぬことだ。生ぬるい内部検証では足りず、国会が徹底調査すべきだ」 と検察問題を中心的課題として位置づけるとともに、「そもそも、なぜ小沢氏は強制起訴されたのか」と問題提起をし、「市民による検察審査会の判断」そのものの是非に迫ろうとしています。また、検察が検察審査会による1回目の起訴相当議決をうけて着手した「再捜査の過程で、小沢氏の元秘書石川知裕衆院議員を再聴取したが、作成された捜査報告書はでたらめだった」と重要な事実を指摘しています。そして、捜査報告書には 「“小沢の共謀を推認する積極証拠となりうる” などとも記されていた」ことを明らかにした上で、「本来は不起訴にした説明をする検察が、市民を強制起訴するよう誘導したと、受け止められてもやむを得ない内容だといえる」と結論づけています。さらに、「今年6月に最高検がまとめた報告書では、“(検事の)記憶が混同した”“故意ではなかった”などと結論づけ、市民から告発された検事すべてを不起訴処分にした。かつ、今も報告書をホームページなどで国民に広く知らせていない」などの事実を指摘して、「あまりに身内に甘すぎる調査結果であり、真相はなお“闇”中にあるといえよう」 と最高検の姿勢を強く非難しています。
 そして最後に、「検察が暴走したら、どう食い止めるのか…。根源的な問いも、この事件は投げかけている」と、この社説で評者が最も優れていると思った指摘・問題提起を読者に対して行っているのが注目されます。このような鋭くかつ核心を突いた指摘は他紙に見られないものであり、(最高裁事務局の“闇”への言及がないなどの限界があるとはいえ)日本のジャーナリズム魂もまだここにこうして残っているのだとの確信と、暴走する権力の監視・批判を続ける勇気の重要性を評者にあらためて感じさせてくれるものでした。
 東京新聞の社説以上に、今回の小沢無罪判決の背景と本質に迫っているのが、日刊ゲンダイの判決当日の記事 「検察敗北 小沢裁判控訴棄却 5年越し謀略に決着」です。その記事では、「この国の権力は極度に腐敗している。… “本件控訴を棄却する”と裁判長が告げると、小沢代表は顔色を変えないまま、ゆっくり一礼した。晴れて小沢の無罪が“決まった”わけだが、歴史家はこの日のことを特記すべきだ。これは紛れもない国家犯罪だからだ。“加害者”は司法検察、マスコミ、そして、その裏でいつもチラついていたのが民主党執行部だ。3つの権力が寄ってたかって、小沢一郎という政治家を葬り去ろうとしたのである」とこの小沢裁判の本質を“国家犯罪”と断言する内容は小気味よいといえるほど単純明快でわかりやすく、きわめて大胆で勇気ある指摘であると思います。評者はすべての新聞に目を通したわけではもちろんありませんが、日本の新聞やジャーナリズムもまだ捨てたものではないとあらためて感じさせてもらいました。
 ここで、もう一度小沢問題(小沢事件・捜査)の発端と全容に焦点を当ててみようと思います。すでに述べたように、東京高裁は小沢一郎氏の裁判で、一審東京地裁の無罪判決を支持し、検察官役の指定弁護士の控訴を棄却しました。このこと自体は常識的で妥当な採決であると思います。また、小沢氏の「虚偽記載」の違法性についての認識を否定したばかりでなく、二人の秘書(石川知裕議員と池田光智元秘書)の虚偽記載の故意についても一部否定さたれたことはまさに画期的でした。弘中弁護士が、「非常にいい判決でしたね。…思ったとおりというよりも、思った以上の判決だったと思います」と賞賛したことも頷けます。そして、「検察審査会が強引に起訴したということ自体が、極めて問題だった」 と述べたことも重要です。また、今回の無罪判決で注目すべきことは、「共謀共同正犯としての故意責任を問う上」で被告人の「違法性の認識」 が重要であり、それを検察(指定弁護人)側が十分に立証できていない以上、「被告人に対し、共謀共同正犯として、法的に刑事責任を問うことはできない」と被告人と秘書との「共謀」を否定している点です(小沢裁判(2審高裁)の 判決要旨 を参照)。
 なぜなら、この点は、権力(特に法務官僚)側がかなり前から導入することを狙っている「共謀罪」の危険性を考える意味で重要な意味を持っていると思うからです(「共謀罪」と「共謀共同正犯」との違いについては、「共謀罪 Q&A 」、海渡雄一、保坂展人『共謀罪とは何か』(岩波ブックレット)岩波書店 (2006/10/5)、田島泰彦、斎藤貴男『超監視社会と自由―共謀罪・顔認証システム・住基ネットを問う』花伝社 (2006/05)、纐纈厚『監視社会の未来―共謀罪・国民保護法と戦時動員体制』小学館 (2007/09)などを参照)。
 今回の小沢無罪判決とその報道の在り方については、すでに多くの論者がさまざまな貴重でかつ鋭い指摘を行っています。元検事で弁護士の郷原信郎さんは、判決日の ツイッター で 「指定弁護士は、控訴したことを後悔しているだろう。一審で止めておけば “惜敗” で済んだのに予想以上だったのは、控訴審判決が、小沢氏の “虚偽性の認識” だけではなく、石川・池田氏の“虚偽性の認識”の一部も否定したこと。近く始まる秘書公判にも重大な影響を与える。石川氏に殆ど犯意らしき犯意がなかったとすると、秘書事件一審判決の“水谷裏献金隠し”の動機は宙に浮く。今日の控訴審判決、簡単にまとめると、指定弁護士⇒《大恥》、検察・登石(秘書事件一審裁判長)⇒ 《真っ青》と言ったところか」と実に興味深い指摘を行っています。そして、「小沢氏控訴審無罪判決に関して、“検審騙し”疑惑が核心であることを正面から指摘しているのは、東京社説 【小沢代表無罪 検察の“闇”を調べよ】だけ。この問題については、拙著「検察崩壊 失われた正義」で是非。検察の暴走捜査を煽り、検審起訴議決が出ると“『民意』を重く受け止めよ”とさんざん持ち上げるなど、司法を政治的に利用しようとする目論見は、裁判所の当然の司法判断で完全敗北したが、制度の問題や政治資金処理の一般論にすり替えて非を認めない。こういうことが平気で行える神経が私には理解不能」 とさらに踏み込んだ発言をしています。さらに郷原さんは、2012年11月14日のブログ「郷原信郎が斬る」のなかで、「この事件の捜査の段階で、検察は、4億円の借入れと定期預金の担保設定は、水谷建設からの裏献金を隠ぺいするための偽装工作として行われたとの構図を描き、マスコミも、その偽装・隠蔽を “水谷建設からの裏献金疑惑” に結び付け、それこそが事件の核心であるかのように報道した。しかし、今回の判決では、被告人がそれを“違法な処理”と認識していたことを否定しただけでなく、実行者の石川氏にも虚偽の説明をしているという認識自体がなかった可能性があると認定したのである(一審判決も、この“4億円簿外処理”の偽装・隠蔽の意図を否定し“その場しのぎ”と認定していたが、マスコミは、それを一切報じなかった)」、「今回の控訴審判決では、検察と指定弁護士が事件の核心であると考えた、4億円をめぐる偽装・隠蔽そのものを否定したところに重大な意味がある。 …そして、検察にとって更に重大なことは、こうして陸山会事件の構図そのものが否定されたことによって、それを前提にしてきた検察捜査が暴走であったということと、虚偽の捜査報告書まで作成して検察審査会を起訴議決に誘導していたという、東京地検特捜部の行なった行為の不当性・重大性が一層明らかになったということである」と結論付けています。判決文要旨(現時点では判決文そのものの入手は困難)を十分精査したうえでの結論と思われるだけに、反論を許さないほどの強い説得力があります(「郷原信郎が斬る」2012年11月14日)。
 また元レバノン大使の天木直人さんはブログで、「小沢二審無罪判決を報じる記事は検察批判や司法改革についてばかりを書くが問題の本質はそこではない。小沢裁判とは政治家、官僚、メディアがグルになって意図的に一人の政治家の政治生命を奪おうとしたという最も深刻な権力犯罪ではなかったか。この事が解明されない限り小沢裁判は終わらない。」 とずばり権力犯罪とメディアの加担について核心を突く鋭い指摘をし、サンデー毎日編集長というゲスト解説委員が 「衆院解散・総選挙の記事は小沢無罪判決にあわせてぶつけてきた」 という驚くべき発言をしたあとでテレビはすぐにコマーシャルを流したことを明らかにしています(天木直人のブログ 2012年11月13日を参照)。
 フリージャーナリストの田中龍作さんはブログ(田中龍作ジャーナル「小沢氏、2審も無罪検察と記者クラブによる冤罪に終止符を」2012年11月12日)で、「記者クラブは裁判所から多大な便宜供与を受ける代わりに判決について批判めいたことは書かない。判決を批判したような記事を見かけたことはほとんどない。裁判所は検察の主張をほぼ認める。記者クラブは検察リークを受けて書き飛ばす。抑止機能なんてあったものじゃない。この国の司法はほとんどすべて検察の言いなり、と言ってよい。陸山会事件で東京地検は小沢氏に有利な証言は隠し、不利となる証言を捏造した。捏造に関与した現職(事件当時)の検事や次席検事が公文書偽造などの罪で逮捕、起訴されている。検察が捏造調書を検察審査会に送り、検察審査会はそれをもとに小沢氏を強制起訴したのである。デッチあげ裁判そのものだ。検察による捏造が明らかになってからもマスコミは小沢氏を限りなく黒に近い灰色のように扱ってきた。小沢氏が検察と記者クラブの両方から目の敵にされていたので、検察審査会を利用したイカサマが罷り通ったのである。陸山会事件は検察と記者クラブが一体となって作り出した冤罪だった」 と、検察と記者クラブメディアが一体となって作り出した 「えん罪」 を見事に描き出しています。
 評者が注目する気骨あるジャーナリストの1人である鳥越俊太郎さんは、鈴木哲夫・日本BS放送報道局長、小町谷育子弁護士との「特集ワイド:座談会・小沢裁判とは何だったのか 摘まれた首相の芽」(「毎日新聞」 2012年11月14日 東京夕刊)のなかで、「私は、この裁判は一部検察官たちの謀略戦だったと思っている。民主党が政権を取ると見られていた09年の総選挙直前に西松事件があった。東京地検特捜部は、金に絡む問題があるとみて捜査したがうまくいかず、陸山会事件で続けた。検察審査会を使って裁判に持ち込み、有罪にしようと考えたのではないか。しかし謀略は裁判所で木っ端みじんに砕かれた」、「推定有罪は、日本のメディアの持っている大きなマイナスポイントだ。一連の報道は読者らに “小沢氏の無罪はおかしい”というイメージを植え付けた。メディアはその責任をどう取るのか。無罪判決が確定したら報道の検証が必要で、場合によっては謝罪すべきだ」、「検察審査会の制度は危ういと感じた。審議は密室だ。地検が起訴できない事件でも、素人に起訴に相当するような材料を見せて起訴を促すように恣意(しい)的に審査会を導いたら、政治生命を奪うことなどは簡単だ」と堰を切ったように自分の意見を赤裸々に臆することなく堂々と述べている様子に強い共感を覚える。
 鈴木宗男・新党大地代表は、「当然の結果であり、私も国策捜査にあった者として、他人事(ひとごと)でない思いです。鬼の特捜と言われる東京地検特捜部が立件出来なかった事件を検察審査会にゆだねるだけでも問題だと考えていました。3年前、検察のリークによる小沢潰し、特に許されないのは、西松建設から渡ったとされる5千万円の件が今回の裁判でも指定弁護士は取り上げなかった。この事からしても、事実ではなかった。しかし、小沢先生にとっては、悪いイメージになってしまった。国策捜査は、私の時で止めて欲しい。終わって欲しいと願っていたが、度々繰り返される検察の暴走とも言うべきやり方に、憤りを禁じ得ない。」とのコメントを判決当日に直ちに発表し、ブログでは「判決文の中を読むと、石川知裕代議士の裁判にも大きな影響を与えるものだと私は受け止めた。今日の判決は石川代議士にとっても新たな展開、又、新しい闘いの道が切り開かれるものと前向きに私は受け止めた次第である」とも述べています。「国策捜査」の被害者として「えん罪」と「報道被害」の恐ろしさを身をもって知っておられる方(在職25年の表彰の元衆議院議員)の発言だけに、その言葉の重みが痛いほど伝わってきます(「ムネオの日記」2012年11月12日 を参照)。
 また、もう1人の国策捜査の被害者である植草一秀さん(元早稲田大学教授)は、ブログ(植草一秀の『知られざる真実』2012年11月13日「小沢一郎氏は不死鳥の如く蘇り政権奪還を実現す」)のなかで、「“被告”の呼称は、もしこの人物が無実の人間であれば重大な人権侵害となる呼称である」とマスメディアの人権感覚の欠如をまず指摘し、「無実潔白の小沢一郎氏を、日本のマスメディアは極悪非道の犯罪人として報道し続けてきた事実を忘れたのか」 と検察の権力犯罪に加担したマスメディアの責任を真正面から問うています。そして、「日本のマスメディアが腐り果てていることを知る国民が激増しているが、ここまで来ると、もはや病的である。いま日本の主権者国民に必要なことは、日本のメディアがすでに死亡しているということを正しく認識することだ。メディアは3年半の間、小沢一郎氏を極悪非道の犯罪人として報道し続けてきた。その事実の肯定、事実の検証、事実の評価、自己批判が不可欠だが、この期に及んで、自己の誤りさえ認めようとしない姿勢である」とその無責任な体質を痛烈に批判しています。さらに、「つまり、この国はいま、完全に腐っているということだ。腐っているのは権力だけでない。権力に群がるマスメディアにも腐敗臭が立ち込めている。カネのためなら何でも協力する守銭奴大資本が存在する。これと結託する利権政治屋と腐敗しきったマスゴミ。米・官・業・政・電の既得権益が日本を暗黒社会にしてしまっている」 と日本社会の根源的な病理を提起し、「この現実を変えることのできるのは、主権者国民しかいない。主権者国民が次の選挙で世直しに動かなければ、この国は本当に滅びてしまう」 と主権者である国民にいまこそ声を上げて行動することを求めています。評者もまったく同感です。こうした植草さんの一貫した姿勢と身体を賭けた呼びかけにある種の感動を覚えるのは私だけはないと思います。
 なお、本件と密接な関係があると思われるので、小沢裁判報告会で出された緊急声明の全文を下記にご紹介します(「国民の生活が第一」 の 森ゆうこ参議院議員のブログ から)
《本日2012年11月12日、東京第五検察審査会の 「起訴議決」 による 「小沢裁判」 控訴審において、一審に続き 「無罪」 の判決が言い渡された。至極当然の判決であり、裁判長の公正な判断に敬意を表するものである。
 具体的な理由もなく控訴することによっていたずらに裁判を長引かせ、この国の最も重要な政治リーダーである小沢一郎衆議院議員の政治活動を妨害した指定弁護士の責任は極めて重い。そもそも、検察が2年間に渡る執拗な捜査にもかかわらず、証拠が無く起訴できなかった事件であり、この裁判の元となった東京第五検察審査会の起訴議決自体が、検察当局の 「捜査報告書の捏造」 という重大な犯罪によって提起されたものであることは、一審の判決理由の中でも厳しく指弾されている。検察が何故このような組織的犯罪を行ったのかを検証することもせず、また具体的な理由もなく控訴したことについて、指定弁護士は国民に説明する責任がある。「捜査報告書のねつ造」 に関する市民団体の告発に対して、検察は田代政弘検事を始めとする関係者を不起訴にした。更にはこの問題の調査を最高検察庁が行ったが、「記憶違い」という田代検事の説明に問題はなかったという 「調査報告書」 を提出し、結局、減給処分となった田代検事は自主的に退職した。しかし、最高検察庁によるその「調査報告書」によって、皮肉にも捜査報告書の提出日が虚偽記載(期ずれ)であったことが既に証明されている。改めて確認するが、陸山会事件で問われているのは、あっせん利得でもなければ贈収賄でもない。会計処理上むしろ正しいと公判で専門家が証言した、登記日による収支報告書の期ずれである。
 証拠もなく強制捜査に着手し、執拗な捜査にもかかわらず証拠が無く自ら起訴出来なかった小沢一郎衆議院議員を、「捜査報告書のねつ造」という犯罪を行ってまで検察審査会を悪用し、刑事被告人に仕立て上げた検察の暴走によって、日本の政治は大きく混乱した。証拠や捜査報告書をねつ造すれば、誰でも容易に犯罪者にされてしまう。小沢一郎衆議院議員をターゲットにした検察の暴走は、選挙によって正当に選ばれた主権者たる国民の代表を不当に弾圧し、議会制民主主義の根幹を揺るがしただけではない。一人一人の国民の人権を守るというこの国の民主主義そのものを脅威に晒しているのである。我々は本日の無罪判決を契機として、日本に真の民主主義を確立するために更に団結していこう。

| 民主主義・選挙・その他::警察が勝手な拡大解釈を行った運動員の逮捕事件 | 08:54 AM | comments (x) | trackback (x) |

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