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2012.10.4 「取財源の秘匿」を盾に「言論の自由」「表現の自由」という権利を乱用する理念なきメディアの無責任な記事を正当化させることは、民主主義にむしろマイナスであるということ - 週刊文春記事の事例から
 朝日新聞が下の記事を書いているが、私の週刊文春に対する名誉棄損訴訟において、週刊文春は、やはり「取材源の秘匿」を前面に押し出して真実性の証明を拒み(実は嘘記事なので真実性の証明はできない)、国会議員については、何を書いても「言論の自由」「表現の自由」があると主張してきた。しかし、記事の中で書かれている“情報源”は、記者の陳述書を読んでも尋問における記者の答えを聞いても、事実と異なり、如何にも信頼性があるかのように大げさに書かれており、殆どが、噂レベルの話を変に歪めた形で書いたもので、仮にそのような噂があったとしても、話した人の理解が正しいとも言えないものだった。

 このように無責任な嘘記事でも、国民の「知る権利」に資するのかといえば、単に誤った情報で国民をミスリード(誤った方向に導くこと)したにすぎない。つまり、国民の「知る権利」のためにメディアが身体を張って書いた記事とは程遠いのであり、「言論の自由」「表現の自由」で護るべきような記事ではない。メディアが「取材源の秘匿」「言論の自由」「表現の自由」を振りかざせば、どんなに無責任な嘘記事を書いても通るということになってしまっては、民主主義にとって百害あって一利なしだ。

 例えば、公認会計士が監査証明書に自署・押印するのは、あらゆる手を尽くして監査した上で間違いないと責任を持てる場合のみである。学者が論文を発表するのも、その内容に責任が持てる場合のみである。それと比較して、メディアは、何を書いてもその記事の真実性に関して大した責任を問われないということになれば、それは余りにも無責任で安易だ。それはまた、メディアの影響力や社会的責任を忘れ、面白おかしく人をあげつらった無責任な嘘記事で金もうけしているメディアへの大いなる福音となる。

 そのため、今までのメディアの実績から見て、国民の知る権利に資すると称して、メディアが、平気で誤った情報や世論を操作する情報を流したり、真実ではないことで他人の人格権や人権を侵害したり、政治活動の妨害や営業妨害を行ったりする土壌は、その記事内容が真実に基づくという証明ができない場合には厳しく対処することでしか改善できないと思っている。

参考記事:http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit2 
(朝日新聞 2012年10月4日)取材源の秘匿―知る権利を守るため
 やがては自らの首をしめ、さらに国民全体の利益をそこなうことになるのではないか。そんな疑問がぬぐえない。 記事で名誉を傷つけられたとして大阪府枚方市の元市長が日本経済新聞社を訴えた裁判で、日経は取材源の氏名を、当人の了解を得ぬまま明らかにした。記事に根拠があると主張するためで、当時の大阪地検検事正らとの会話のメモを提出した。
 日経が先月末に新聞紙上で発表した見解はこうだ。
(1)内容は、記者が別途入手した情報の確認にとどまる(2)掲載から3年が過ぎ、捜査は終わっている(3)検事正らは広報責任者である。以上から、開示しても取材源が不利益を被ったり、将来の取材活動に影響したりすることはないと判断した――。 たしかに、記者に会ったと知れるだけで窮地に立たされる恐れのある内部告発者と、検察幹部とでは立場は異なる。だが、取材活動の前提である信頼を裏切る行為であることに違いはない。なぜ、将来への支障までないと言えるのだろう。そんな心配をするのも、単に日経と取材先との関係にとどまる問題ではないからだ。メディアは自分たちの利益にかなうと考えれば、自分たちだけの判断で情報源を明らかにすることもある。そんな受け止めが広がったらどうなるか。取材をこわがり、拒み、資料の提供に二の足を踏む空気が強まるのは間違いない。そうして情報の流れが止まるとき、真に被害をうけるのは「知る権利」を侵される国民である。念のためはっきりさせておくが、記事のもとになる情報を発した人の氏名や立場は、記事の中で明示するのが原則だ。きちんと説明してこそ、受け手側の理解と信頼は深まる。 しかし、さまざまな事情から情報の出どころを明らかにしない約束をしたときは、最後まで貫く。やむなく開示する際は必ず本人の了解を得る。それが、報道にたずさわる者が心すべき基本倫理である。
 取材源の秘匿は、しばしば他の価値、とりわけ、真相を解明して公正な裁判を行うという要請と対立する。そのなかで裁判所は、記者が秘密を守ることについて一定の理解を示す判断を重ねてきた。なのに、当の報道側がその意義を軽んずる振る舞いをしたらどうなるか。表現の自由や取材の自由は、細心の注意を払いながら、守り育てていくものだ。この認識を欠くおこないは、先人たちの労苦を無にし、社会を息ぐるしいものにしかねない。

| 民主主義・選挙・その他::週刊文春の名誉棄損記事に勝訴 | 12:30 AM | comments (x) | trackback (x) |

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