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2013,03,16, Saturday
「さくら咲く」の電報は、公正でなければ意味がないし、国益にもならない。 (1)センター試験の効力と東大の第2次学力試験の意味 現在の東大入学試験は、「学力試験(大学入試センター試験及び第2次学力試験)及び調査書による。入学志願者が各科類の募集人員に対する倍率に達した場合は、大学入試センター試験の成績により第1段階選抜を行い,その合格者に対して第2次学力試験を行う(http://www.u-tokyo.ac.jp/stu03/e01_02_01_j.html参照)」とされているので、*1のように、「東大が2次試験の後期日程を廃止し、新たに筆記試験を課さずに面接や内申書だけで合否を判断する一般推薦入試の導入に向けた検討を進める」ということは、この人たちの学力はセンター試験だけで測られることになる。 しかし、センター試験は、大学進学希望者全員の学力を測るために作られているため、東大への入学を希望する生徒の正規分布上での位置は、だいたい3σより右側で、殆どの生徒が95点~100点をとっている状態であるため、センター試験のみで合格者を決めれば、たまたまのミスが合否に大きく影響し、正しく学力のある生徒を選別することはできない。 これに対し、東大の第2次学力試験は、覚えただけでは答えられないものが多く、東大への入学希望者が正規分布に近くなるように作られた試験であるため、東大入試として必須であり、今後、地方分権を進めたいのであれば、それぞれの地域のリーダーを育てるべき旧帝大は、同様にした方がよいと、私は思っている。 (2)推薦入学及び調査書の弊害 (1)のように書くと、必ず「大切なのは学力だけではない」という反論があり、推薦入学や調査書による合否の判定が行われるようになった。しかし、これは、教師や権力の顔色を覗うことには長けているが、筋の通った反骨精神がない人間を作るのに貢献したという弊害がある。 なぜなら、推薦する立場の高校教諭は、殆どが普通の人であるため、*2や*3のような生徒に高い評価をつけることはできないからである。むしろ、「かわった子(空気が読めない、奇人変人など)」「(動物とばかりつきあっており)人間とのコミュニケーション能力に欠ける子」「(次世代の常識を作る人であるにもかかわらず)常識のない子」「(落ちこぼれではなく、飛び上がりであるにもかかわらず)発達障害の子」などと評価される可能性がある。ファーブルは、生前は、祖国フランス全体ですらあまり理解されなかったし、コンラート・ローレンツは行動学を打ち立て、DNAと進化の仕組みを解明しているのだが、今でも、理解しない人が多い。 しかし、日本の東大は、このような天才や秀才を間違いなく拾って、勉強や研究をする機会を与えなければならない。そのためには、「一般人のその時代の常識」に左右される推薦や調査書とは関係なく、学力だけで公正に選別するのが、最も公平で間違いないと考える。これは、次の時代の常識を作り出すリーダーを輩出しなければならない大学の使命である。 *1:http://www.saga-s.co.jp/news/global/corenews.0.2417989.article.html (佐賀新聞 2013年3月13日) 東大が推薦入試導入へ / 後期を廃止、面接と内申 東大が2次試験の後期日程を廃止し、新たに筆記試験を課さずに面接や内申書で合否を判断する一般推薦入試の導入に向けた検討を進めていることが12日、東大関係者の話で分かった。5年以内の導入を目指す。戦後に現在の学制となってから、推薦入試の導入は初めてという。「知識偏重」と言われ、受験生の多様な能力を測れないとされる現行の入試方式を改革するのが狙い。「ペーパーテストの点数だけでなく、学生の主体性や意欲の評価も入試に反映させたい」(東大幹部)としている。 *2:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB (ファーブル) (ポイント)南フランスのアヴェロン県にある寒村サン・レオンに生まれ、3歳のとき山村にある祖父母の元に預けられ、大自然に囲まれて育った。父の家業が失敗し、14歳で学校を中退するが、師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。コルシカ島、アヴィニョンを経てセリニアンで安住し様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。ファーブルが生きていた当時、彼の業績は祖国フランスではあまり理解されなかった。しかしその後『昆虫記』は世界中で翻訳されて注目を浴び、文章の魅力もあいまって業績が評価されていった。ファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりもカール・フォン・フリッシュやコンラート・ローレンツのようなドイツ語圏、あるいはニコ・ティンバーゲンのようなオランダ語圏の研究者に継承されて発展を遂げることになり、また古くからの昆虫愛好文化をもつ日本で広く愛読され、昆虫学の普及に役立った。 *3:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84 (コンラート・ローレンツ) (ポイント)ローレンツの最も大きな功績は、動物行動の観察という当時は軽視されていた古典的な手法を厳密に用い、科学の名に値するものに仕立てたことである。生理学・解剖学などからはわからない、動物の行動を直接研究する分野が生まれることになった。その中で特に有名なのはニシコクマルガラスやハイイロガンの観察研究である。自ら様々な動物を飼育し、解剖したり傷つけたりするような実験は好まなかった。刷り込み現象の発見は、自らのハイイロガンの雛に母親と間違われた体験に端を発したものである。
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2013,02,26, Tuesday
SPEEDIにそれぞれの地点の実測値を入れれば、より正確なデータが導き出せた筈にもかかわらず、何故*1のようなことが起こったのか?福島県原子力安全対策課の担当者の言い訳を見ると、①放射性物質の拡散が県民の命や健康に与える影響を、他の仕事を優先して考慮しなかった ②日頃からSPEEDIの仕組みも理解していないため使えなかった ③原発事故の影響を小さく見せたいという空気に影響された という原発立地地域の担当者にあるまじき原因が垣間見える。そして、これらは、物理学や生物学に疎く、周囲の空気を読んで行動する大多数の文科系の特徴でもあるが、それでよいのだろうか。
また、*2のように、放射性物質を含む瓦礫は「焼却してしまえば、燃えてなくなる」と考えるのも、文科系の人の発想である。本当は分子はなくならないため、気体や粒子となって広く拡散し、さらに集めにくくなって被害を大きくする。そのため、放射性物質は閉じ込めるのが原則だが、ごり押しして焼却したがる人がおり、それに反対する人を「理解せずに不安に思っている人だから、丁寧な説明で不安を払拭させる」と言うのである。実際には、理解していないのは、焼却したがっている人であるにもかかわらずだ。 そういう調子だから、*4のようなことが起こっているにもかかわらず、それは報道されず、*3のように日本製品から大気中の通常の基準値を上回る放射線量が検出されて、せっかく作った日本製品の安全性やブランド力を低下させている。少しわかっている人なら、物理の原則から導かれる論理に基づき、測って返品しているのだから、日本の行政やメディアが、*5のように、国際基準を無視して、「風評被害がいけない」と主張すればするほど、日本人及び日本製品全体が信用をなくすのである。 こういうのは、常識程度の物理、生物、化学の知識があれば、すぐわかることである。しかし、日本の文科系の人材は、入試科目にないためか、高校でこれらの分野をあまり勉強せず、大学でも全く勉強していない人が多い。特に、私立大学の文科系学科は理数系科目が全く入試にないためか、理数系の知識があまりないが、卒業生は立法・行政・司法・メディアや民間企業のマネジメントに多くいるのだ。 ではどうすればよいのかと言えば、高校や大学の教養程度の知識は、理科系・文科系にかかわらず、どちらも常識として持っておかなければならないものであるから、私立大学でも文科系学科の入試に国公立大学並みの理数系科目を課し、高校でしっかり勉強させることが必要だと考える。また、大学は、文科系・理科系をあまり早くから分けずに、どの進路に進む生徒にも、考えるためのツールとなる学問は、しっかりと教えておくことが必要だ。 *1:http://mainichi.jp/select/news/20130222k0000m040137000c.html (毎日新聞 2013年2月22日) 福島第1原発:ベント前 放射性物質の拡散 データは放置 東京電力福島第1原発事故による放射性物質の拡散が、これまで考えられていたより早く11年3月12日早朝から始まっていたことが、福島県の観測データで裏付けられた。しかし、県がモニタリングポストの解析を終えたのは、政府や国会の事故調査委員会が最終報告書をまとめた後。現在進行している県民健康管理調査にも、このデータは反映されていない。被災者の健康に直結する「命のデータ」は事実上、放置されてきた。 福島県によると、津波で流されなかったモニタリングポスト20基のデータ回収を始めたのは、東日本大震災から約1カ月後の11年4月。19基を同7月までに回収し、一部の解析に着手した。しかし、残る1基を回収し全解析を終えたのは、最初の回収から約1年5カ月後の昨年9月下旬だったという。この間、政府や国会の原発事故調査委員会が相次ぎ発足し、事故原因の究明にあたった。両委員会は昨年夏、最終報告書をまとめたが、県のデータの存在を把握しないまま解散したことになる。政府事故調の元メンバーで同県川俣町の古川道郎町長は「政府事故調で検証されなかった新事実だ。なぜ解析がこんなに遅れたのか。事故の検証は終わったとは言えない。継続的な検証態勢を整備すべきだ」と憤る。一方、このデータは11年6月に始まった県民健康管理調査にも活用されていない。この調査は、県民から震災当時の行動記録の提出を受け、被ばく線量を推計する。今回明らかになったデータは、事故初期の「実測値」にあたるが、当時の線量はこれまで、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)で予測した線量が使われてきた。県立医大は「県の解析データを使うか使わないかは、議論している最中だ」としている。 福島県原子力安全対策課の担当者は毎日新聞の取材に「県内全域の放射線調査など他業務に忙殺され、結果的にデータ解析が後回しになった。大変申し訳なく、ただただ謝るしかない」と謝罪している。これに対し、国会事故調に県民代表として参加した同県大熊町民の蜂須賀礼子さんは「県民の健康を真っ先に考えたならば、急いで解析されるべき『命のデータ』のはずだ。福島県の対応は(原発被害を受けた)県民として恥ずかしい限りだ」と話した。 *2:http://www.minyu-net.com/news/news/0225/news5.html (2013年2月25日 福島民友ニュース) 村、説明会を継続へ 鮫川・焼却実証施設建設 環境省が鮫川村青生野地域に建設を進めている放射性物質を含む稲わらなどの農林業系副産物の焼却実証実験施設について、同村の大楽勝弘村長は、24日までに地元住民を対象に開いた説明会で「今後も住民に理解を求めていく」として、説明会の開催を継続する考えを示した。説明会は冒頭以外、非公開となり、説明会後、報道陣の取材に応じた大楽村長は同施設建設への説明が不十分だったとした上で、あらためて「住民の理解が得られなければ稼働させない」と強調。「丁寧な説明で不安を払拭(ふっしょく)させたい」とした。また、同省の山本昌宏廃棄物対策課長は緊急対策マニュアルがほぼ完成していることを明らかにした。一部の参加者からは、健康や放射性物質の拡散を懸念する質問があったという。説明会は23日、同村の青生野集落センターで開いた。 *3:http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013022201001919.html(東京新聞 2013年2月22日) ロシア、364物品を日本に返送 昨年、極東税関 【ウラジオストク共同】ロシア極東税関のパシコ局長は22日、2012年の1年間に日本から持ち込まれた中古車や自動車部品など400物品から大気中の通常の基準値を上回る放射線量を検出し、うち364物品の輸入を認めずに日本に返送したことを明らかにした。共同通信の取材に答えた。400物品の日本の積み出し港は小樽、新潟、富山、横浜、大阪など各港という。今年に入っても42物品から基準値を超える放射線量が検出され、うち18物品のロシアへの輸入が禁止された。 *4:http://www.asahi.com/national/update/0220/TKY201302200472.html (朝日新聞 2013年2月21日) 福島第一原発、消えぬ汚染 4号機建屋内部を同行取材 東京電力福島第一原発事故からまもなく2年。朝日新聞記者が20日、原子力規制庁の検査官に同行し、爆発事故を起こした4号機の原子炉建屋の内部に入った。廃炉作業が進むものの、爆発で飛び散ったがれきがいまだに散乱し、いたるところに事故の爪痕が残っていた。4号機は東日本大震災当時、定期検査で停止中だった。しかし、炉心溶融事故を起こした3号機から水素が配管を伝って流れ込み、爆発が起きて建屋が吹き飛んだ。冷却できなくなった燃料プールの水が干上がって核燃料がむき出しになり大量の放射性物質がまき散らされるのではないかと、一時は世界中を揺るがした。事故後に建屋の外に据え付けられたエレベーターで、オペレーティングフロアと呼ばれる最上階に上がった。昇る途中、爆風で吹き飛んだコンクリート片がそのままになっているのが見えた。事故が起きた直後とほとんど変わらない状態だという。 *5:http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20130224-OYT1T01073.htm (2013年2月25日 読売新聞社説) 原発風評被害 放射能の基準から考え直せ 放射能の安全基準について政府は根底から考え直すべきだ。政権交代はその好機と言えよう。消費者庁が、東京電力福島第一原子力発電所事故による風評被害の対策を強化する。森消費者相は、「民主党政権は消費者の不安を募らせた」と述べ、具体策の検討を指示した。 福島県産の農産物は、検査で安全を確認し出荷されているが、価格を安くしなければ売れない。流通量もなかなか増えない。森氏が、「安全基準への疑問や不安があると思う」と指摘したのは、もっともである。野田政権は、食品中の放射能基準を海外より厳格化した。政府の放射線審議会は、弊害が出ると警告したが、小宮山厚生労働相(当時)が政治的に押し切った。その結果、基準超過が増え、食品の信頼回復は進まない。過去の核実験の影響としか考えられない放射性物質が検出され、出荷停止となった野生キノコもある。問題なのは、野田政権が年1ミリ・シーベルトの被曝(ひばく)線量を安全と危険の境界線としたことだ。年1ミリ・シーベルトは法的に放射性物質を扱う施設の管理基準に過ぎないのに、この線引きを食品基準にも適用した。 国際放射線防護委員会(ICRP)も、年1ミリ・シーベルト以下が望ましいとしている。ただ、野田政権との違いは、これを超えても直ちに危険とは見なさないことだ。ICRPは総量で100ミリ・シーベルトまでなら明確な健康影響は検出できないとの立場だ。ICRPが考える1ミリ・シーベルトは、安全性に余裕を見込んだ数値で、合理的に達成できるなら、との条件も付く。世界には、大地などから年10ミリ・シーベルトの放射線を浴びる地域がある。病院の放射線診断で1回に約7ミリ・シーベルト被曝することもある。1ミリ・シーベルトでの線引きは、16万人近くの避難者の帰還を遅らせる要因にもなっている。ICRPは、被災地の復旧過程では、年20ミリ・シーベルトまで許容し、可能な範囲で年1ミリ・シーベルト以下にするとの考え方を示している。だが、細野環境相(当時)は、1ミリ・シーベルト以下への除染を強調した。ICRPの考え方は、住民の生活確保と除染の両立だが、除染が偏重される結果となった。政治の誤ったメッセージと言えば、泉田裕彦新潟県知事も同様だ。柏崎市、三条市が岩手県のがれきを一般ごみとして処理したことを「犯罪行為」と非難した。しかし、がれきの放射能は県内のごみと変わらない。首長が風評被害を増長させては困る。
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2013,01,28, Monday
文部科学省は、学校の序列化や過度の競争が生じる恐れがあるとして、各自治体教育委員会に学校別成績を公表しないことを確認させようとしているが、結果を公表して、地域間や学校間の違いを正確に認識し、よかった点、悪かった点を把握して、さらなる改善に繋げることこそ、全国学力テストの目的だろう。公的にしっかりとそれを行わなければ、予備校に頼らざるを得なくなり、貧富の差や教育インフラの地域間格差が生徒の学力に影響してくる。そして、学力が身につかなければ、不幸なのは生徒である。
また、正確な情報開示による学校のランク付けは、教育を受ける子どもを持つ親から見れば、必要不可欠だ。なぜなら、やり直しのきかない教育をわが子に受けさせるにあたり、どの学校にやるかは、大変重要な意思決定となるからだ。それと、変な序列化とは区別すべきである。 さらに、学校間の競争は、教育の質を上げるために必要不可欠だ。競争のない組織がどうなるかは、もう、私が指摘するまでもないだろう。そして、教育を受ける側は、正確な情報による多様な選択肢の中から選べるようにすべきだし、教育を行う側は、正しい分析に基づいて、常にブラッシュアップし続けるべきである。部活では頑張らなければならないが、学力で競争があってはならないというのは、変な哲学だ。 *1:http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.2385186.article.html (佐賀新聞 2013年1月23日) 「公表なら参加認めず」武雄市長方針に見解 国が4月に実施する2013年度の全国学力テストについて、武雄市の樋渡啓祐市長が市内の学校別成績を12年度に続き公表する意向を示している問題で、文部科学省は「仮にそうなった場合はテストへの参加を認めない」とする見解を示した。22日に佐賀新聞社の取材に答えた。学力テストをめぐっては、文科省は学校の序列化や過度の競争が生じる恐れがあるとして、各自治体教委に学校別成績を公表しないことを確認する文書を提出するよう求めている。武雄市教委は順守すると回答しており、市長と教委の見解が食い違っている。 21日に県教委が市教委に確認したところ、浦郷究・市教育長は文科省の要請通りにする意向を伝えた。浦郷教育長は「テスト実施までは時間があるので、じっくり考える。市の教育委員とも話し合う」としている。県教委はこの問題に立ち入らない考え。 公表する理由について、樋渡市長は「学校の置かれている状況を公表し、議論することで学力向上を図れる」と説明。「教育委員会の予算編成権や執行権は市長にあり、独自の判断で公表もできる」と話している。 同省学力調査室は「武雄市教委には要請の順守をお願いする。仮に、公表の方針に転じれば、テストへの参加は認められない」としている。 これに対し、樋渡市長は「なぜ、いきなり決めつけようとするのか。同省の考えを聞いてみたいし、こちらの意見も聞いてほしい。まず議論しましょうと言いたい。序列化だけの理由では納得できない」と反発している。
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2013,01,27, Sunday
大阪市立桜宮高校の事件について、具体的事実関係も知らないのにコメントしすぎると、自殺した生徒が二次的被害を受けるのでコメントを控えていたが、私は、何らかの改革を促すための橋下大阪市長の判断は正しいと思う。
これに対し、*2のように、生徒たちは「在校生と受験生のことを考えたらもっと違う結果があったんじゃないか」と訴えたそうだが、手本となるような生徒が自殺せざるを得なかった空気に満ちている学校の雰囲気を、改革もせずに、そのままにしておいてよいわけがないだろう。 そして、女子生徒が、「(体罰を)容認していない」とも言っているが、実際には、理不尽に殴られていた人のために怒りを感じることもなく、それを黙認してきたわけだから、それはまさに容認しているのであり、人間として足りない点があるということを教えるべきである。「礼儀など人として一番大切なことを教えてもらっている」とも話しているが、一番大切なのは表面的な礼儀ではなく、本物の正義感とヒューマニズムである。そして、その判断には、知性が必要だ。 自殺問題については、「心の傷は深く、重く受け止めている。傷を癒せるのは先生」としているが、これは小学生ならまだしも、社会人予備軍としての高校生の発言としては、あまりにも弱く他力本願である。ここには、自分の心の傷が深いから、誰かに傷を癒してもらいたいという発想しか見えないが、高校生ともなれば、自殺した生徒の立場に立ち、死ぬほど追い込まれていた友達の為に自分にできることはなかったのかを自問自答したり、学校の雰囲気のどこが悪かったのかを考えたりすべき年齢であり、「重く受け止める」とは、そういうことを言うのである。また、別の女子生徒が「今まで続いている伝統は今でも正しいと思っている」と力説したそうだが、それなら、このままでよいという考えなのだろうか? また、同校運動部の元主将らも市役所で記者会見し、「市長から入試中止について納得できる説明はなかった。もっと私たちの声を聞いてほしい。何の関係もない中学生が巻き込まれることに納得できない」と話したそうだが、他力本願で正義感も強さもない生徒が高校で育てられ、社会に出されても、その人たちを受け入れて就職先となる企業では社員教育に困るため、まず非正規労働者として受け入れ、その後、失業者へと進むしかなくなる。部活を目的に高校に入学し、部活ができなければ生きがいがないというような生徒を作る高校は、生徒に本当の強さや生きる力を与えているようには思えないが、この高校は、どういう人材を育てるために教育してきたのだろうか? *1:http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130121-OYT1T00402.htm (2013年1月21日 読売新聞) 大阪市立桜宮高校で体罰を受けた2年男子生徒(17)が自殺した問題をめぐり、橋下徹市長が21日午前、桜宮高を訪れた。 市教委によると、橋下市長は今春入試での同高体育系2科の募集中止を市教委に求めたことについて、全校生徒や教諭に「新しいクラブのあり方をきちんと出す前に新入生を迎えるべきではない」と述べ、考えに変わりがないことを強調した。体罰問題の発覚後、橋下市長の同高訪問は初めて。生徒への説明は非公開で行われた。市教委によると、橋下市長は午前8時45分頃、同高に到着。体育館での全校集会で、午前10時頃まで話したという。その中で、橋下市長は「スポーツの中で手を上げることは、ものすごく遅れた指導法。そんなことで技術力は上がらない。世界最先端の指導でないと、体育科の意味がない」としたうえで、「今回の件は一線を越えており、皆さんが社会人になった時に間違った道を進まないよう、クラブのあり方を考え、もう一度、全国に誇れる桜宮高校にしてほしい」と呼びかけた。また、「生きているだけで丸もうけ」との自身の発言については「生きていれば、少し回り道をしてでも自分のやりたいことに向けて進むことができるという意味だった」と釈明したという。 橋下市長の説明の後、生徒2人が手を挙げて発言。いずれも体育科の募集継続を求める内容だった。1人は、「(自殺は)忘れてはいけない出来事。桜宮のことを真剣に考えている。(ただ)体育科を続けた状態で考えていきたい」との内容で、もう1人は、「市長は人生は長いというが、今しかない時間を大切にしたい。普通科であればいいという問題でない。入ってくる子にとって受験は一度だけで、その機会を奪ってほしくない」との趣旨だったという。これに対し、橋下市長は「皆さんに責任はないが、世の中には越えてはいけない一線がある」などと譲らなかった。 同高訪問後、橋下市長は記者団に対し、「生徒の声を聞いても、僕の方針を変えるに至らなかった。生徒の言葉だけで間違った教育行政をやるべきではない」と述べた。21日夕の臨時教育委員会議で募集継続が決まった場合でも「僕は入試をやめさせます」と、市長の予算執行権で対抗する考えを改めて強調した。また、橋下市長は21日の市議会文教経済委員協議会でも、「旧態依然とした指導が続けられ、生徒は無批判に受け入れている。桜宮高校は時が止まっている状況だ」として同高の刷新が先決だとの考えを改めて示し、体育系2科の募集中止と全教職員の異動の妥当性を強調した。 *2:http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013012100907 (時事ドットコム 2013/1/21) 「結論覆す」、決意の反論=高校生8人、入試中止で会見-大阪市 大阪市立桜宮高校の体育系2科の入試中止を受け、記者会見する同校の生徒=21日夜、大阪市北区の大阪市役所 大阪市教育委員会が橋下徹市長の要求通り、市立桜宮高校の体育系2科の入試中止を決定した21日夜、同校3年の男子生徒2人と女子生徒6人が記者会見に臨んだ。「私たちは納得いかない」「学校を守りたい」。8人は「まだ結論を覆せるかも」と、橋下市長と市教委に対し、決意の反論を展開した。市役所5階の記者クラブで午後7時半から1時間余にわたった会見。8人はいずれも運動部の元キャプテン。制服のブレザー姿で横一列に並んだ。「体育科に魅力を感じて受験したいと思う生徒がほとんど。普通科に回されるのは、私たちは納得がいかない」。女子生徒が口火を切った。橋下市長が同日朝、全校生徒を前に説明したが、「具体的な理由がなく、私たちの声も十分に聞いてくれなかった。思いは1時間で話せるわけがない。『生徒、受験生のことを考えて』と何度も繰り返したが、在校生と受験生のことを考えたらもっと違う結果があったんじゃないか」と訴えた。 橋下市長が体罰の背景に「生徒たちも容認していた」「勝利至上主義」などと発言していたのに対し、女子生徒は「容認していないし、勝つことだけが目標ではなく、礼儀など人として一番大切なことを教えてもらっている」と反論。自殺問題について「心の傷は深く、重く受け止めている。傷を癒せるのは先生」として教諭の総入れ替えにも反対し、「多くの生徒が学校を守りたいと思っている」と強調した。男子生徒は「今回の結果が覆せるんじゃないかと、強い思いを持ってきた」と会見の動機を語った。別の女子生徒も「今まで続いている伝統は今でも正しいと思っている」と力説した。 *3:http://mainichi.jp/select/news/20130122k0000m040013000c.html (毎日新聞 2013年1月22日) 大阪・桜宮高:体育系2科の入試中止決定 市教委 大阪市立桜宮高校でバスケットボール部主将の男子生徒(当時17歳)が顧問から体罰を受けた翌日に自殺した問題で、市教委は21日、橋下徹市長の要請に基づき、同校で2月に実施予定だった体育系2科の募集と入試の中止を決めた。自殺という重大な結果を招いたことを重視し、体罰の背景を検証する必要があると判断した。ただ受験生への影響を抑えるため、2科の定員を普通科に振り替えて募集、同内容、同日程の入試を新たに実施する。 市教委はこの日、教育委員会会議を開き、委員5人のうち4人が、体育科(定員80人)とスポーツ健康科学科(同40人)の入試中止に賛成した。同時に、試験科目や配点、日程が2科と同じ普通科(同120人)の入試を、3月に実施する従来の普通科(同160人)とは別に実施することも決めた。定員を振り替える普通科は府内全域から募集するうえ、スポーツに特色のあるカリキュラムを組むことにしており、体育系2科に近い。さらに、入学後に体罰の実態調査や教育方針の見直しなどが終われば、2科への編入も検討する。 橋下市長は「教育的な視点から素晴らしい決定をしてくれた。体育科の在り方も含め、再生に向けて改革が始まる」と話した。また、橋下市長は会議に先立つ21日午前、同校を訪れ、全校生徒約840人に「クラブで勝つより大事なことがある。立ち止まって考えてほしい」などと入試中止への理解を求めた。 一方、同校運動部の元主将ら8人は21日夕、市役所で記者会見。「市長から入試中止について納得できる説明はなかった。もっと私たちの声を聞いてほしい。何の関係もない中学生が巻き込まれることに納得できない」と話した。市立中学の校長会や、同校の保護者、市議会などからも入試実施を求める声が上がっている。
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2013,01,12, Saturday
(1)何故、自殺せざるを得なかったのか?
バスケットボール部顧問の教師から体罰を受けていた高校男子生徒が自殺した問題が、いっせいにメディアで報じられたが、私は、*1の「抗議するために自殺せざるを得なかった」という状況が問題だと思った。なぜなら、①主将としての重責に悩むのなら、主将もしくは部活を止める(普通のことをしていたら替りはいくらでもいることを知るのも、社会へ出るための勉強である) ②他の先生に不当性を訴えてやめさせる(社会人予備軍の高校生ともなれば、おかしなことには論理的に抗議する力もつけていなければならない) ③親に不当性を訴えて学校に言ってもらう(親も、おかしなことにはきちんと抗議して子どもを守らなければならない) など、命を粗末にしなくてすむ方法も考えられるからである。高校で、筋道を立てて抗議することができなかったり、命の大切さを教える教育がなされていなかったりしたのであれば、それこそが重要な問題だ。 (2)体罰の定義は何か? 確かに、「顧問が発奮させようと平手打ちした」というのは、私にも意味のない暴力のように見える。何故なら、平手打ちすれば発奮するというものではないからだ。しかし、一方で、*3のように、「教室の騒がしさが今までになく、離職する教師もいるほど。私には“学級騒乱”といった方がぴったりする」という事態も起こっている。そのため、他の子どもに迷惑をかけず、また、その子をしつけるために、罰が必要な場合もある。そこで、教える側には、どのような場合に、どのような罰ならよいのか、悪いのかを判断する力が求められるが、この社会の雰囲気では、厳しく教育することは、教える側にリスクを伴いやすく、これも問題である。そこで、*2のように、文部科学省18、文科初第1019号(平成19年2月5日)「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」というのがあり、「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」が示されている。 (3)自分の経験から → 子どもは天使ではなく、しつけをすべきものである。 私は、小学校の時に下のような経験をした。そのため、先生には、適切で厳しい対応を行って、しつけをする能力も求めたいし、社会は、それを受け入れなければならないと思っている。 1)小学校6年生の時 放課後の掃除の時間、必ず掃除をさぼり、机を引いた広いスペースで暴れている2~3人の男子児童がいた。学級委員だった私は、相当の期間、口で注意したり先生に言ったりしていたが、言うことは聞かれず、私は、ついに、その2~3人の男子児童を相手にとっくみあいの喧嘩をする羽目になった。小学6年生の女子児童が、同年の2~3人の男子児童を相手にとっくみあいの喧嘩をしなければならないのは負担である。こういうのは、先生が注意して直してもらわなければ、他の児童に迷惑である。 2)小学校3年生の時 2歳年下の妹が1年生になっていたが、ある日、私の同級生の男子児童が、私に「妹さんが、砂場でいじめられよる」と知らせに来てくれた。私は、「だったら自分が止めてよ」と言ったのだが、その男子児童は動く気配がなかったため、私が砂場に走っていくと、妹が2人の1年生の男子児童にいじめられて泣きながら闘っていた。そのため、私が、妹からその男子児童たちを引き離して砂場に放ったら、「こわかー」と言って2人とも逃げて行ったが、男の子2人を相手に筋力で闘うのは、私も大変だった。こんなのは、先生が注意して直してもらいたい。 3)小学校1年生の時 学級委員だった私が、教室の後ろで騒いでいる数人の男子児童を止めていたら、先生が入ってきて、何故か、私が立たされてしまった。どうしてそうなったのかわからないが、先生は、誰が悪いのかを、きちんと確かめてから罰を与えてもらいたい。そうでないと、単なる人権の侵害だ。なお、私の場合は、小学1年生でも抗議したが、聞かれなかった・・。 そして、児童・生徒は、そのようなことを50年以上経っても覚えているほど、先生の存在は大きく、教育は人生に影響を与え、そこで教育された人々が社会を動かしているのである。 *1:http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013011102000147.html (東京新聞社説 2013年1月11日) バスケ部主将の自殺 学校に体罰はいらない いじめに続いて今度は教師の体罰である。学校現場が子どもを死へと追いやる舞台となってしまっている。大人の責任で教育の在り方を問い直さねば。昨年十二月二十三日。大阪市立桜宮高校二年生でバスケットボール部の主将を務めていた男子生徒が自宅で自殺していたことが明らかになった。市教育委員会が今月八日になって公表したのだ。顧問の男性教諭から体罰を受けてつらいこと、主将としての重責に悩んでいること…。手渡せずに残されていた顧問宛ての手紙には、そんな苦しい板挟みの心境がつづられていたという。 ◆体罰が横行している 桜宮高は普通科に加え、特色のある体育科とスポーツ健康科学科を設けている。スポーツ系部活動が盛んだ。大舞台での活躍を夢見て入学する生徒が多いという。男子バスケ部は、過去五年に三回インターハイに出場した実績を誇る。バスケが大好きで、テスト期間中でさえ自主練習に励んでいたという男子生徒。その無念さを思うと胸がつぶれる。自殺の前日、練習試合に負けて帰った男子生徒は「今日もいっぱい殴られた。三十発から四十発かな」と母親に打ち明けた。顧問は発奮させようと平手打ちしたというが、遺体の頬は腫れ、唇が切れていたというから尋常ではない。自殺後のバスケ部員五十人へのアンケートでは、二十一人が体罰を受け、四十八人が主将を除くほかの部員への体罰を見ていた。殴る、蹴るといった暴力が常態化していたのは間違いなく、自殺の引き金になった可能性が高い。橋下徹大阪市長が「事実なら犯罪だ。完全な暴行、傷害だ」と憤慨したのも当然だろう。桜宮高では、かつて男子バレーボール部でも顧問の男性教諭が体罰を加え、停職処分を受けていた。全校的な体罰の全容を調べ、再発を防がねばならない。 ◆教育責任の放棄だ 教育的指導の名の下で行われる体罰は、旧日本軍をほうふつさせるが、過去の話でも、桜宮高に限った話でもない。文部科学省の調べでは、全国の公立小中高校や特別支援学校で二〇一一年度に体罰を理由に処分された教職員は四百四人に上る。三割程度が部活動絡みだった。最近十年間は四百人前後で推移していて大きくは減っていない。この数字が実態を反映しているかは疑わしい。桜宮高のバスケ部での体罰情報は一一年九月に市の公益通報窓口を介して市教委に寄せられていた。ところが、高校は顧問の否定的な言い分をうのみにして「体罰はなかった」と結論づけていた。自殺前日の練習試合では、副顧問ら教員二人が近くで顧問の体罰を目撃していた。けれども、二人ともバスケ部出身の卒業生で、恩師であり、上司である顧問に異論を挟めなかったらしい。これでは体罰情報が闇から闇へ葬られていたと言うほかない。文科省の統計に表れない水面下の体罰は想像以上に多発しているのではないか。いじめと同様に徹底した全国調査が必要だ。生徒への聞き取りを含めて踏み込んで調べていれば、副顧問らが勇気を出して顧問をいさめていれば…。悲劇を防ぐ手だてはあったに違いないと悔やまれる。学校現場も市教委も体罰を軽く考え、事態を放置してきたのではないのか。組織防衛や自己保身の意識が先に立ち、穏便に済ませようと意図したのではないのか。大津市であった中学二年の男子生徒のいじめ自殺の問題で、後ろ向きの対応に終始して批判された中学校や市教委とそっくりの事なかれ主義が透けて見える。とりわけスポーツの強豪校では、戦績を挙げるために教育的指導の名の下で体罰が黙認される風潮が強いという指摘がある。問題となった顧問は桜宮高を強豪校に育て上げ、高校バスケ界に名前をとどろかせた。功労者としての特別扱いなのだろう、市教委は一九九四年から十八年間も桜宮高に勤務させていた。人事の公正さが損なわれたのではないか。顧問のやり方を熱意による「愛のムチ」と思い込み、周りが一切口出しできない閉鎖的な環境が出来上がっていた恐れがある。 ◆死を無駄にするな 学校現場での体罰は学校教育法で禁止されている。身体的に苦痛を与えたり、恐怖心をあおったりしても、子どもとの信頼関係が築けないからだ。体罰に訴えなければ指導できないようでは、それは教師としての未熟さや力量のなさの証明だ。そもそも教師失格なのである。 *2:http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/07020609.htm (文部科学省 18文科初第1019号 平成19年2月5日) 問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知) いじめ、校内暴力をはじめとした児童生徒の問題行動は、依然として極めて深刻な状況にあります。いじめにより児童生徒が自らの命を絶つという痛ましい事件が相次いでおり、児童生徒の安心・安全について国民間に不安が広がっています。また、学校での懸命な種々の取組にもかかわらず、対教師あるいは生徒間の暴力行為や施設・設備の毀損・破壊行為等は依然として多数にのぼり、一部の児童生徒による授業妨害等も見られます。(中略) <学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方> 1 体罰について (1)児童生徒への指導に当たり、学校教育法第11条ただし書にいう体罰は、いかなる場合においても行ってはならない。教員等が児童生徒に対して行った懲戒の行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある。 (2)(1)により、その懲戒の内容が身体的性質のもの、すなわち、身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、蹴る等)、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)に当たると判断された場合は、体罰に該当する。 (3)個々の懲戒が体罰に当たるか否かは、単に、懲戒を受けた児童生徒や保護者の主観的な言動により判断されるのではなく、上記(1)の諸条件を客観的に考慮して判断されるべきであり、特に児童生徒一人一人の状況に配慮を尽くした行為であったかどうか等の観点が重要である。 (4)児童生徒に対する有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒は、その一切が体罰として許されないというものではなく、裁判例においても、「いやしくも有形力の行使と見られる外形をもった行為は学校教育法上の懲戒行為としては一切許容されないとすることは、本来学校教育法の予想するところではない」としたもの(昭和56年4月1日東京高裁判決)、「生徒の心身の発達に応じて慎重な教育上の配慮のもとに行うべきであり、このような配慮のもとに行われる限りにおいては、状況に応じ一定の限度内で懲戒のための有形力の行使が許容される」としたもの(昭和60年2月22日浦和地裁判決)などがある。 (5)有形力の行使以外の方法により行われた懲戒については、例えば、以下のような行為は、児童生徒に肉体的苦痛を与えるものでない限り、通常体罰には当たらない。 ○ 放課後等に教室に残留させる(用便のためにも室外に出ることを許さない、又は食事時間を 過ぎても長く留め置く等肉体的苦痛を与えるものは体罰に当たる)。 ○ 授業中、教室内に起立させる。 ○ 学習課題や清掃活動を課す。 ○ 学校当番を多く割り当てる。 ○ 立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。 (6)なお、児童生徒から教員等に対する暴力行為に対して、教員等が防衛のためにやむを得ずした有形力の行使は、もとより教育上の措置たる懲戒行為として行われたものではなく、これにより身体への侵害又は肉体的苦痛を与えた場合は体罰には該当しない。また、他の児童生徒に被害を及ぼすような暴力行為に対して、これを制止したり、目前の危険を回避するためにやむを得ずした有形力の行使についても、同様に体罰に当たらない。これらの行為については、正当防衛、正当行為等として刑事上又は民事上の責めを免れうる。 2 児童生徒を教室外に退去させる等の措置について (1)単に授業に遅刻したこと、授業中学習を怠けたこと等を理由として、児童生徒を教室に入れず、教室から退去させ、指導を行わないまま放置することは、義務教育における懲戒の手段としては許されない。 (2)他方、授業中、児童生徒を教室内に入れず、教室から退去させる場合であっても、当該授業の間、その児童生徒のために当該授業に代わる指導が別途行われるのであれば、懲戒の手段としてこれを行うことは差し支えない。 (3)また、児童生徒が学習を怠り、喧騒その他の行為により他の児童生徒の学習を妨げるような場合には、他の児童生徒の学習上の妨害を排除し、教室内の秩序を維持するため、必要な間、やむを得ず教室外に退去させることは懲戒に当たらず、教育上必要な措置として差し支えない。 (4)さらに、近年児童生徒の間に急速に普及している携帯電話を児童生徒が学校に持ち込み、授業中にメール等を行い、学校の教育活動全体に悪影響を及ぼすような場合、保護者等と連携を図り、一時的にこれを預かり置くことは、教育上必要な措置として差し支えない。 *3:http://sankei.jp.msn.com/life/news/120121/edc12012107550002-n1.htm (MSN産経ニュース 2012.1.21) TOSS代表・向山洋一 全国に広がる新型学級崩壊 全国各地の教室で、今まで見たことのない学級崩壊が続出している。これまでの学級崩壊は、新卒教師や未熟な教師の教室で生じていた。ところが最近は、評判の良かったベテラン教師、学校の中心になってきた教務主任などの教室でも起こる。教室の騒がしさが今までになく、離職する教師もいるほど。私には「学級騒乱」といった方がぴったりする。 原因は不明だ。ただ、一つや二つの原因ではない。多重的だ。学校が壊れていくこの現象に、私は「新型学級崩壊」と名付けた。分かっている限りの現象を紹介する。東北地方の静かな農村。1学級35人。そのうちシングルマザーは11人でシングルファザーが2人の学級だ。親は働くのに忙しく「子供に教える」ことをとばして、叱り、どなり、たたいて育てる。子供は学校で、友達をたたきまわる。東京の高級住宅街。かつて、親からたたかれた子はクラスで2、3人だった。今は、たたかれない子が2、3人だ。両親の間で子育ての押しつけあいが目立つ。「子供をどう育てるのか」という知識、親学ともいうべきものが欠如している。子供の前で担任の悪口を言う親がいる。かつてそんなことはなかった。親から担任の悪口を聞いた子供は、教師の言うことを全く聞かなくなる。担任を「クソババア」と、どなりちらすようになる。携帯電話で「担任の悪口、風評」を流す親がいる。そのような親のため学級崩壊したクラスは多い。被害は自分の子供に及ぶのである。教師に責任があることも多い。
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2013,01,10, Thursday
これまで、このブログの記事で理由を説明してきたとおり、私は、電力自由化と脱原発が、わが国の未来を拓くと考えているので、その意味では、*1の意見に賛成である。しかし、物事に利害関係や反対意見がある時に、論理的に筋の通ったディスカッションをして決着するという態度は、子どもの頃から自然と吸収できるようにすべきであり、その中で、メディアは重要な役割を担っているため、(江戸時代ならともかく)現在のメディアが「ならぬことはならぬ」という言葉を繰り返すのは、考えることを中止して誰かの命令や従来のやり方に従うことを推奨しており、感心しない。
一般の人や子どもは、メディアから情報を得て学んでいる部分が多い。そのため、メディアは、物事は論理的に説明しなければならないという文化のシャワーを浴びせる必要があるのに、テレビドラマでも、誰かがディスカッションしようとすると、「○○ちゃん」と名前を呼んで、ディスカッションすることを辞めさせるシーンをよく見かける。しかし、それでは、ディスカッションを通じて生きた知識を吸収し、論理的に思考して物事を決めていく力を育むことはできない。 そのような中、それまで「ディスカッション(議論)してはならない」「考えてはならない」と言わんばかりの教育をされてきた人々に、*2のように、「大学の数年間だけで、考える力やディスカッションする力を身につけよ」と要求すること自体、無理があるだろう。本当は、子どもの頃から、「いけないことは、何故いけないのか(もし説明できないのであれば、それは思い込みにすぎないかも知れない)」「知識は暗記するものではなく、理解して記憶するものである」「論理的にディスカッションせよ」という教育を、先生も親もメディアもしていなければならないのである。しかし、現在は、そのような基本行動を身に付けた大人の裾野が狭いため、メディアからブレーク・スル―してもらいたい。 なお、知識がなければ意味のある思考はできないため、知識は重要である。そして、知識は試験があったり、仕事で必要になったりして、必死で勉強して得る場合が多い。そのため、入試では、思考力だけでなく、その時点で必要とされる知識量は、当然、計らなければならない。何故なら、その知識量がなければ次の段階の教育はできないし、入試を動機づけとして勉強させることもできるからである。しかし、最終的には、合理的に問題解決することが目的であるため、問題解決できない知識をいくら持っていても意味がない。これは、グローバル化しようとしまいと、どの時代の、どの社会でも同じだろう。 *1:http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/342351 (西日本新聞 2013年1月9日) 「脱原発」はひとときの流行語に終わるのか 「脱原発」はひとときの流行語に終わるのか。あの震災を首都圏で経験し、放射線の数値を気にして暮らした一人として、新政権には強い不安を抱いている。でも、昨年末、一つの音楽祭が少しの勇気をくれた。東京・日本武道館で見た「ソーラー武道館」。奥田民生さんや斉藤和義さんら約20組のミュージシャンが参加し、4時間に及んだライブは、エレキギターなどの楽器や照明、空調を、太陽光発電の電気だけで賄った。専門家も実現を疑ったという試みは、「やればできる」ことを証明してくれた。昨年の流行語になぞらえれば、脱原発方針を「新設容認」に大転換するのは「ワイルド」過ぎやしないか。少々気は早いが、今年の流行語大賞を競うであろう、福島が舞台の大河ドラマ「八重の桜」の言葉を前のめりな新総理に申し上げたい。「ならぬことはならぬ」でいきませんか? *2:http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/342228 (西日本新聞社説 2013年1月8日) 大学改革を考える 主体的に学ぶ姿勢を育てよう ■2013確かな明日へ■ 参加した大学人ら教育関係者は、よほど頭を悩ませているのだろう。「グローバル時代の人材育成」を主要テーマに昨年12月、九州大が福岡県教育委員会と福岡市内で開いたシンポジウムでのことだ。「そんな能力を身に付けるには、どうしたらいいのか」と会場から質問が相次いだ。質問を受けたのは九大の卒業生で、国際ビジネス界に身を置く立場からパネリストを務めたパソコン販売大手レノボ・ジャパンの渡辺朱美社長だ。人や物、金、情報が地球規模で往来するいま、渡辺社長はシンポで「自律的に自分で考え、行動できる能力」と「価値観や考え方が異なる多様な世界を受け入れ、自分の考えを伝えるコミュニケーション能力」を持つ人材が求められている、と力説したからだ。質問に対し、渡辺社長は「(自らの意見を論理的に述べ合う)ディスカッション中心の授業」を教育界に求めたうえで「やはり練習であり、慣れだと思う。教えてできるものではない。何度も経験することだ」と説いた。考え行動する力も、コミュニケーション能力も近年、日本人に必要とされる資質であり特段、目新しい指摘ではない。しかも、その課題を解消する方策が「訓練」だというのである。小難しく考えることはない。もちろん、それだけではなかろうが、小中学校から高校、大学と各段階で「経験」を地道に積み重ねることこそ、難題を解く近道だ‐ということだろう。 ▼グローバル時代に 21世紀に入り、すでに10年以上が過ぎた。大学の定員と志願者数がほぼ一致し、望めば誰でもどこかの大学に入れる大学全入時代を迎え、あらためて大学教育のあり方が問われている。中央教育審議会の大学教育部会が「大学生にもっと勉強させよう」と提言したのは、昨年春だった。全入時代で学生の質の低下が懸念される一方、グローバル社会に対応できる能力育成が懸案となっている背景がある。提言は現代を、グローバル化や少子高齢化などで社会が激変し、将来予測が困難な時代と定義し、大学の役割に「生涯学び続け、主体的に考える力の育成」を掲げたのが最大の特徴だ。具体的に重視したのが勉強時間である。東京大などの調査によると日本人学生は授業を含め1日平均4・6時間で、欧米の学生の半分程度という。大学教育部会は、その要因について学生は授業には出るものの自主的な予習・復習が少ないため‐と分析し、授業の前後に予習・復習をしっかりするなど「主体的な学び」を提唱した。入学さえすれば、自分から学ばなくても卒業できる。かつてはそうだったとしても、これからはそうはいくまい。社会がどう変わるか予測が難しい時代であり、学生には自ら未来を切り開く努力が求められ、大学にはそうした主体性ある人材を育てる責任がある。九大シンポで渡辺社長が唱えた能力を若者が獲得し、今後の社会を生き抜くためには、一方的に講義を聴く従来型の受動的学習から、自ら課題を発見して答えを見いだす課題解決型の能動的学習への転換が必要だろう。無論、最低限の基礎学力は欠かせない。しかし、習得した知識の量を誇る時代は過ぎた。知識を活用して課題を解決する力こそが求められている。中教審は、その後の答申で、双方向形式の講義や実習などのほか、インターンシップ(就業体験)、ボランティア活動、留学など、幅広い学びの場を提供するよう、大学に要望した。これまた広い意味で、価値観が異なる多様な世界を前提に対話を重ね、課題に立ち向かう「ディスカッション中心の授業」に通じるといえよう。大学は「学生は自分で勉強するものだ」とする固定観念に甘え、人材を育てる使命を軽視しがちではなかったか。研究と教育が大学の両輪だが、教育の側面が弱かったという声もある。文部科学省が全国の国公私立大の学長に聞いたところ、「授業が退屈」と認めた学長が3割を超えた。本当に学生本位の授業をしているのか。大学は真摯(しんし)に反省すべきときであろう。 ▼入試も一体改善を いまの学生は「学ばない」といわれるが、「学び方を知らない」といった方がより正確である。知識を得る以外、学び方を習って来なかったのだ。小中学校では、学習指導要領の趣旨である「考える力」育成に力を入れている。だが、まだまだ高校までに主体的に学ぶ習慣は定着していない。この断絶をどうしたらいいのか。九大シンポでは、そんな問題提起もあった。一方通行の授業を見直すなら、大学入試も一体的に変える必要がある。知識量よりも思考力を測るよう、手間をかけてほしい。一発勝負、1点刻みの選抜も排除したい。そうした入試が浸透すれば、小中学校はもちろん、高校の教育も変容せざるを得まい。九大の有川節夫学長は「課題を与えて考えさせれば、学生はついてくる。学生の力を信じる」とシンポジウムを締めくくった。学校教育の頂点に立つ大学が変わらなければならない。大学改革は待ったなしである。
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2012,12,01, Saturday
2006年の夏、佐賀県の私立高校の先生から「私立高校の学費は高いので、子どもが3人いると全員は高校に進学させられないから何とかして欲しいと父母から言われている」という陳情があった。地方の場合、県立高校に入れないから私立高校に行く人が多いので、私立高校を選択している子どもの親が、県立高校を選択している子どもの親より裕福だとは限らず、経済的にはむしろ苦しい場合が多いとのことだった。そこで、佐賀県庁の担当者に確認したところ、「県立高校にやっても、塾までやらなければならないから大変ですよ」と、こちらからも陳情された。
現在、高校の進学率は95%以上であるし、勉強しておくべき知識も増えたことから、高校までは無償化して、孤児も含め、進学したい人はできるようにすべきだと思って準備し、2006年12月に教育基本法が改正されて(*3)、民主党政権の2010年になってから公立高校授業料無償化と私立高校就学支援金支給制度が実現した(*1)。大学は、奨学金をもらって自分で行くことにしたが、どうだろうか。 これは、子育て世帯を助け、教育費が子どもの数のネックになるのを防いで少子化を止めるとともに、基礎学力がなければ普通の労働者としても質が高いとは言えないので、わが国産業の基礎となるものである。例えば、雪印乳業大樹工場製の乳製品集団食中毒事件のような場合、一般の工員でも、「こうしたら食中毒が起こるから、自分はここで周りの注意を喚起しなければならない」と考えて周りに警告を発することができるためには、初歩的な生物学と物理学の知識が必要であるのを見ればわかる(*4)。 それにもかかわらず、*2のように、わが国では、「詰め込み教育」の反対として「ゆとり教育」政策が採られ、その結果として、公立の学校では十分な知識が得られないため、親が子どもを塾に通わせたり、私立の学校に入れたりすることで、一部で何とか学力を維持しているという状況なのである。しかし、それでは教育の機会均等にはならず、親の負担も大きい上、貧乏が世代間で引き継がれることになってしまう。 そのため、「学力向上」「総合力の育成」「落ちこぼれ防止」をすべて実現するためには、*3のイギリス(イングランド)の事例のように、日本でも小学校の入学年齢を5歳とし、時間的ゆとりを持って必要な学習は繰り返し行うことにより、落ちこぼれを出さずに十分な教育を行うことを、私は提案する。また、質の高い保育・学童保育を整備し、その時間にも、予習・復習をさせたり、農林漁業、食育や料理、自然や社会に接するなど、多面的な経験をする機会を与えるのがよいと思う。そのための人材は、教師の資格を持ちながら就職できない若者や、定年退職したが元気で経験豊富な元教師など、いくらでもいる。 そして、義務教育を5歳~18歳までとして無償化し、保育や学童保育を1割負担くらいで行えば、現物給付で子育て世代を支援することになり、多額の現金給付よりも確実に子どもの教育のために使われると思う。また、4歳以下の子どもも、環境の良い保育園で、教育しながら預かるべきである。女性が普通に働いている現在、保育や学童保育は、子どもの居場所として必要なだけでなく、子どもにとってはふるさとの情景や思い出として心に刻まれ、その後の精神構造や人生に大きな影響を与えるものであるため、質・量ともに充実した保育や学童保育の整備を速やかに行うことが必要だと、私は思うのである。 さらに、義務教育では、無償か1割負担くらいで、栄養・味覚・視覚において充実した給食を与えることも、両親の育児にとっては大きな助けとなり、子どもに栄養学や食文化を教えるよい機会ともなる。また、1日に一回、しっかりとした食事を与えておけば、家庭で満足な食事を与えられない子どもでも、何とか育つことができる。 最後に、子育てに関する財源も、何に使われるかわからない消費税より、「子育て保険(仮名)」を創設して歳入と歳出をガラス張りにし、公認会計士監査をして、徴収漏れや目的外支出を無くし、不足分は税金から補填することにした方が、確実に目的の社会保障に使われて、安心できそうだ。 *1: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A0%A1%E6%8E%88%E6%A5%AD%E6%96%99%E7%84%A1%E5%84%9F%E5%8C%96%E3%83%BB%E5%B0%B1%E5%AD%A6%E6%94%AF%E6%8F%B4%E9%87%91%E6%94%AF%E7%B5%A6%E5%88%B6%E5%BA%A6 高校授業料無償化・就学支援金支給制度 高校授業料無償化・就学支援金支給制度は公立高等学校などの授業料を無償化し、また私立高等学校などに就学支援金を支給して授業料を低減することを目的とした制度であり、日本で2010年度から実施されている。根拠法令は公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律であり、この法律の略称は高校無償化法である。 *2:http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E6%95%99%E8%82%B2/ ゆとり教育 [ 日本大百科全書(小学館) ] (ポイント)1976年(昭和51)、教育課程審議会(1950設置、2001中央教育審議会に統合)は、授業についていけない子どもが多いのは、学習内容が過密なためであり、これが不登校の増加や授業が荒れる原因になっているという考えのもと、「ゆとり教育」の必要性を説くようになり、ゆったりと授業を受けられるように、教材を削減する答申を出した。1989年(平成1)、教育課程審議会の答申を受けた文部省(現文部科学省)は、ゆとり教育の導入を狙いとした教育課程の改訂を発表し、この新しい教育課程は、教材の「3割削減」と受け止められて、社会的な反響を巻き起こした。さらに、2002年度(平成14)から、学校の完全週5日制が実施されることになり、年間授業日数は202日程度になった。 その結果、小学6年生の総授業時間数は、1968年度(昭和43)の年間1085時間から、89年度の1015時間を経て、98年度には945時間と、30年の間に140時間減少している。また「総合的な学習の時間」も導入されており、その分だけ「教科」の時間が減った。国語を例にすると、1968年度には245時間あった授業が、89年度の210時間、98年度の175時間へと、70時間も授業時間が減少している。 *3:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2 イングランド(イギリス)の教育制度 イングランド(イギリス)では、無償の就学前教育が行われている。2~4歳向けの保育園(nursery school)、4~7歳向けの幼稚園(infant school)に併設された保育学級(nursery class)があり、義務教育は、小学校(primary school)が5歳から始まる。 *3:http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18HO120.html 教育基本法 (平成十八年十二月二十二日法律第百二十号) 抜粋 教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の全部を改正する。 第一章 教育の目的及び理念 (教育の目的) 第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。 (教育の目標) 第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。 一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。 四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。 (生涯学習の理念) 第三条 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。 (教育の機会均等) 第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。 2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。 3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。 第二章 教育の実施に関する基本 (義務教育) 第五条 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。 2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。 3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。 4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。 (学校教育) 第六条 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。 2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。 (私立学校) 第八条 私立学校の有する公の性質及び学校教育において果たす重要な役割にかんがみ、国及び地方公共団体は、その自主性を尊重しつつ、助成その他の適当な方法によって私立学校教育の振興に努めなければならない。 (幼児期の教育) 第十一条 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。 (施行期日) この法律は、公布の日から施行する。 *4:http://www.sydrose.com/case100/132/ 雪印乳業大樹工場製の乳製品集団食中毒事件 1.直接原因 大樹工場の停電:停電により製造ラインが止まったが、その対応ができず、回収乳の加温状態が長引いて黄色ブドウ球菌が増殖、 エンテロトキシンA型毒素が発生した。この毒素に汚染された乳材料から乳製品が製造され、食中毒が起こった。 2.主原因(組織的原因) ①停電により製造ラインが止まったが、その対応ができず菌増殖、毒素が発生した乳材料が、本来 廃棄処分すべきが、製造に回された。 ◆現場の衛生管理の知識が徹底していなかった。 ◆現場の危機管理意識の欠如、停電時のマニュアルなし ②停電などで製造工程が止まった際の菌の増殖防止や、工場の再稼動手順や製品検査、廃棄基準 等を決めたマニュアルは作成されていなかった。 ③製造された脱脂粉乳の細菌数が同社の安全基準を上回り、本来廃棄処分すべきにもかかわらず 「加熱殺菌すれば安全」 と判断し、細菌数が規格を上回った製品を原料に再利用し、新たに脱脂 粉乳を製造、大阪工場に出荷した。 ◆工場長をはじめ従業員はエンテロトキシンに関して熟知していなかったばかりか、「細菌から発生 する毒素は加熱しても毒性を失わない」という基礎知識が欠落しており、職場は食品衛生の基本 的な認識が薄らいでいた。 ◆社内基準が遵守されていなかった。基準マニュアルは、作っただけで形骸化していた。 3. 食中毒の被害拡大原因(組織的原因) 食中毒が発生した後に製品の回収、社告の掲載、記者発表などが遅れ、食中毒の被害が拡大した。 ◆最初のミスは、被害の兆候を「通常の苦情、問い合わせ」と判断したこと、集団食中毒に発展する という意識が全くなかった。 ◆ブランドが傷付くことを恐れ、漫然と時を過ごした危機管理の甘さ、回収、社告の掲載、記者発表 等対処の遅れ。経営トップが決定に関与しない責任体制、リーダーシップの欠如。 ◆責任逃れからくる事実の隠ぺい、情報伝達の不手際
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2012,11,08, Thursday
*1の記事にあるように、田中真紀子文部科学相が11月2日、来年度の新設を申請していた3大学について不認可と決め、その理由を、①少子化の中で乱立して783校になった大学は競争が激化している ②審議会のあり方を抜本的に見直すべき ③大学の質や運営に問題があるところがある ④そのため、改革の一石を投じた と説明している。
しかし、①については、下の理由で的外れだ。 ●今までの認可により大学数が増えたのであり、これから認可を受けようとする新大学に問題があ るわけではないため、このやり方では、単なる新設大学への参入規制になること ●大学数が多くなりすぎれば、大学間の競争で時代のニーズに合ったものが選別されるのが、参入 規制するよりも国民の福利を高めること ●そもそも大学数を増やした理由は、大学に行きたいけれども受け入れる大学がないという状況を なくすことが目的であったため、学生のレベルにより大学に差ができるのは当然であること ●少子化と言っても、70歳定年制などになれば、人生の前半に一度だけ大学に行ったのでは時代が 要請する知識の変化や高度化についていけないため、社会人が、必要な知識を大学で再度学べ るようにしなければならないこと。これには、職場から派遣されてもよいし、自発的に休職して大学 に通ってもよく、また、会社で行う研修にも使えるようにすべきである。 ●少子化であれば、将来の労働力確保のために、国で奨学金を出して、(主に貧しい国から)比較的 優秀な外国人留学生を受け入れることも必要であること ●特に保健医療関係の大学は、看護師の大卒化、女性の社会進出による保育、高齢化によるリハ ビリ、介護、栄養指導などのニーズの増加により需要が増えていること ②については、仮にこのような必要性があったとしても、秋田公立美術大、札幌保健医療大、岡崎女子大をスケープゴートにすることは許されない。*2のように「今回の騒動がいい宣伝になる」などということはなく、後で認可されたとしても、認可にこれだけもめるほど質が悪く危うい大学だという評判を立てて、営業妨害を行った結果になっているからである。 ③についても、文部科学大臣が、秋田公立美術大、札幌保健医療大、岡崎女子大は、大学の質に問題があるので認可しないと判断したことになり、風評被害による営業妨害になりそうである。 ④については、イノベーションや改革は、ただ変えればよいというものではなく、何から何に変えるのかが重要である。私は、一般的に「大学の経営が悪くなったから新規参入を規制する」よりは、それぞれの大学が社会のニーズをとらえて特色を出し、どう生き残るかを工夫すべきだと思っている。そして、経営計画が甘くてそれができなかった大学は、他大学と合併するなどして解消されるべきだ。 なお、単に一石を投じるためにスケープゴートにされた大学は、たまったものではない。なぜなら、信用というものは、築き上げるのは大変だが、壊れるのはたやすく、取り返しがつかないからである。 *1:http://www.asahi.com/politics/update/1102/TKY201211020192.html (朝日新聞 2012年11月2日) 田中文科相、3大学設置認めず 審議会答申覆す 田中真紀子文部科学相は2日、来年度の新設を申請していた3大学について、不認可と決めた。いずれも前日には文科省の大学設置・学校法人審議会が認可を答申していた。答申が覆された例は、少なくとも過去30年間はないという。田中文科相は、同審議会のあり方を抜本的に見直す方針を示した。不認可とされたのは、秋田公立美術大、札幌保健医療大、岡崎女子大(愛知県)。いずれも来春の開学を予定していた。藤村修官房長官は2日の記者会見で「文科大臣の政策的な判断」としている。新設するには再申請しなければならず、開学は早くても2014年度になる。同審議会は、大学の学長ら有識者の委員で構成され、学校法人、大学、短大、学部の新設や廃止の妥当性について、文科相の諮問を受け、答申するのが役割。今回、3大学については、法令に適合しているとして、1日に新設を認める答申を出していた。同省によると、審議会の大学設置分科会の正委員15人のうち、10人は現役の学長や教授らで、大学・短大に所属している。田中文科相は2日午前の閣議後会見で、委員の大半が大学関係者であることを問題視し、「多様な視点が必要。大学同士だと遠慮があるかもしれない」と指摘した。 また、現在783校ある4年制大学について「競争が激化していて、質や運営に問題があるところがある」とも指摘。また、「事前規制ということではない。イノベーション、改革だ」と説明した。不認可となった3大学の関係者からは「理解できない」「到底承服できない」などの声が上がっている。 ◆ 岡崎女子大の設置準備室は「混乱している。審議会の答申は開学を認めており、大臣の判断は受け入れがたい。今後、緊急の理事会を開いて対応を協議する」と話した。秋田市大学設置準備室によると、校舎の新築や増築、改修工事などは全体で約3割まで進んでいたという。 *2:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121107-00000618-san-pol (産経新聞 11月7日)大学不認可問題 田中文科相「3大学はいい宣伝になった」 「今回(の騒動が)逆にいい宣伝になって4、5年間はブームになるかもしれない」。田中真紀子文部科学相は7日、不認可としながら一転して新設を認めた秋田公立美術大(秋田市)など3大学について、首相官邸でこう語った。不適切な発言との批判が出そうだ。3大学への認可通知は「事務的に(行う)」とし、突然の不認可判断に始まる今回の混乱について自ら大学側に説明するかは明らかにしなかった。いったんは不認可とした判断については「私には日本の教育のあるべき姿についてイメージがあり、文科相を拝命して(役所の)中からだったらブレークスルー(突破口)をつくれると思った」と説明した。さらに「(大学の)経営者が代わって、借金ができたりしないように応援しないといけない」とも指摘した。
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2012,10,13, Saturday
京都大学の山中伸弥教授がノーベル賞を受賞されたのは大変おめでたいことだが、*1で本人もおっしゃっているとおり、iPS細胞の利用は最終的な形ではなく、体の中でその人自身の再生能力で再生するという流れに変わると、私も思う。iPS細胞は、正常な細胞に別のDNAを加えて細胞の初期化を行うため、細胞が元のものとは変り、癌化する可能性もあり、あまり安全とは言えないからだ。(*3参照)
例を挙げれば、*2で、森口尚史氏がiPS細胞を心臓治療に使ったと言っているが、心臓治療であれば、本人の足の筋肉を増殖させて心臓治療に使い、すでに成功例があった。足の筋肉細胞の方がiPS細胞より優れている理由は、iPS細胞は、細胞を初期化するために、もともとなかったDNAを加えているため癌化する可能性があるが、本人の足の筋肉細胞であれば本人と全く同じ細胞であるため、癌化しないからである。そのほか、身体のいろいろな部分に幹細胞が存在し、造血幹細胞移植や脂肪幹細胞移植などが再生医療として研究されており、免疫細胞による癌治療も始まった。 そのため、すでに外国で認められた「再生医療=iPS細胞=山中教授」という1ルートだけに注目して、そこのみに多額の研究予算をつけるのではなく、今後の可能性がある研究を見抜いて、それぞれに研究予算をつける必要がある。しかし、予算をつける担当者には基礎研究の可能性や将来的展望を見抜く能力はないのが通常であり、これが問題であるため、これを解決して研究者を支えるべきである。なお、わが国の基礎研究者は、外国で名を挙げれば日本でも認められるが、先に日本で認められてよい研究環境を与えられ、成果に結びつくことが少ないのも問題である。 *1:http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/328717 (西日本新聞 2012年10月12日) iPS細胞「過渡的なもの」 再生医療で山中教授 ノーベル医学生理学賞が決まった京都大の山中伸弥教授は12日、横浜市内のバイオ関連のセミナーに出席し、人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った再生医療について「iPS細胞(の利用)は究極の形ではなく、体の中でその人自身の再生能力で再生するという流れに変わると思う。iPS細胞は過渡的なものだ」と話した。ノーベル賞については、高コレステロール治療薬を発見した東京農工大の遠藤章特別栄誉教授が選ばれると予想していたと明かした。iPS細胞は「結局、何でできるかもまだ分かっていない。出来方はそんなに単純ではないのではないか」と述べ、さらなる基礎研究が必要だと強調。 *2:http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012101202000100.html (東京新聞 2012年10月12日) 「iPS治験」病院が否定 「審査委承認の事実ない」 (ポイント)人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った初めての臨床応用を行ったとの森口尚史氏の説明に対し、治療を実施したとされた米マサチューセッツ総合病院の広報担当者は十一日、共同通信の取材に「病院や(関連する)ハーバード大の内部審査委員会が治験を承認したとの事実はない」と否定した。またハーバード大は、森口氏が一九九九年十一月末~二〇〇〇年初めにかけ一カ月ほど在籍したが、その後の関わりはないとしている。森口氏は客員講師を務めていると話していた。森口氏はロックフェラー大で開かれているトランスレーショナル幹細胞学会で治療の内容をポスターで発表したが、主催するニューヨーク幹細胞財団は「内容に疑義がある」として、ポスターを撤去した。心臓の治療には細胞を大量に用意する必要がある上、移植手術をした後の細胞の異常に対処したりするのが難しく、治療研究の中でも最難関とされ、臨床応用はまだ数年先とみられている。取材に対し、国内の複数の専門家も、森口氏の治療の効果を疑問視する姿勢を見せていた。森口氏は取材に「大学の倫理委員会を通すなど、きちんと手続きを経て研究を進めている。iPS細胞を作る手法が京都大の山中伸弥教授と違うと言われるが、私は私のやり方でやっていて、移植後も問題は生じていない」と説明していた。 *3:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E5%A4%9A%E8%83%BD%E6%80%A7%E5%B9%B9%E7%B4%B0%E8%83%9E (ポイント)人工多能性幹細胞(Induced pluripotent stem cells)とは、体細胞へ数種類の遺伝子を導入することにより、ES細胞(胚性幹細胞)のように非常に多くの細胞に分化できる分化万能性 (pluripotency)と、分裂増殖を経てもそれを維持できる自己複製能を持たせた細胞のこと。幹細胞生物学者・山中伸弥率いる京都大学の研究グループによって、マウスの線維芽細胞(皮膚細胞)から2006年に世界で初めて作られた。
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2012,07,22, Sunday
大津市の中学生いじめ自殺事件については、*2の日弁連の意見は、多くの日本人が反対しないし、メディアもそういう報道をしがちですが、私は、*1のようなアメリカの考え方が正義感としてしっくりきます。何故なら、いじめた子どもの人権よりも、いじめられて自殺せざるを得なかった子どもやその家族の人権の方が、ずっと大きく棄損されており、決してそのことを忘れてはならないからです。
それにしても、先生・学校・市教委・警察の行動は、信頼に値せず許し難いものです。また、そのようないじめを止めない道徳観を持つ先生や、被害者の問題として責任逃れをする学校に教育ができるのかについては大いに疑問です。そして、「これだからこういう大人が育ってきたのか・・」と思わざるを得ない局面も社会には多くあります。なお、これら一連の行動は、個々の人間の良心や正義感に基づくものですから、先生、市教委、警察官の、人間としての価値観や感受性、仕事への意欲が最も重要なのであり、システムの問題として弁解できるようなものではありません。また、システムを変えたからといって、その中で行動する人間の価値観、つまり正義感、道徳観、仕事に対する責任感が変わらなければ、状況が変わることはないでしょう。 *1:http://nyliberty.exblog.jp/18561519/ ●いじめを見ていた教師が放置(しかも自殺の練習をさせていた?!)。 ●学校や市教委は隠蔽工作。 ●地元警察の大津署は被害届を3度も受理せず・・・。 (ポイント)こんなことがあって本当に良いのか? 子どもや女性を守ろうという意識は、アメリカでは日本とは比較にならないほど強く、つい先月もタイム誌に、5歳の娘を守るため犯人を撲殺したお父さんが無罪になった事件の特集記事がありました。テキサス州の牧場の馬小屋で、娘が性的虐待を受け悲鳴をあげたところに父親が駆けつけ、犯人を素手で撲殺。大陪審は、お父さんは完全な無罪とし、一切の罪に問われないことになりました。タイム誌は、「子どもは自分を守れない。これが犯罪というのなら、多くの父親が子どもを守るために刑務所に行く。」と全面支持。また、読者の声として「完全に賛成、当然だ」などを紹介。日本ではこの手の話題に必ず出てくる「犯人の人権が・・・」などという声はどこにも見当たりません(撲殺されているのに!)。 また、これでも格式あるタイムやフォーブスは、記事タイトルも「なぜ無罪か?」「過剰防衛ではないのか?」といった感じで、一般紙や大衆紙よりずいぶん穏やかな論調で書かれている方です。さらにもう1つ付け加えると、加害者の「そんなつもりじゃなかった」とかそれを見ていた周囲の「そう思わなかった」という言い訳は、アメリカじゃ通用しません。その訴えが嘘だった場合は話が別ですが、通常、アメリカでは被害者の感じ方を重視する方針です。とにかく、加害者側の文化的背景や事情とは関係なく、被害者がどう感じたかが重要で、そのペナルティは大きく、代表的な例では米国三菱自動車が1998年にセクハラ裁判の和解金で3,400万ドル(記事の出た98年6月の平均レートは1ドル=140.09円、約47億6千万円)の支払いに合意したと報じられています。以上のとおり、加害者を撲殺しても無罪になったり、巨額賠償金が支払われたり、アメリカでは子どもや女性を守ろうという意識はとても強いのですが、どちらの事件も被害者の命は無事です。 一方、大津市の13歳の男の子の命は、いじめによって奪われてしまいました。もし、これがアメリカだったら、いじめの加害者、それを放置していた教師、学校、市教委あたりが、少年の家族に巨額の賠償金を支払うことになっても全く不思議ではない気がします。特に、生徒を守るべき立場でありながら、隠蔽工作をした学校、市教委の罪は極めて重くなるはずです。しかし、日本ではそんな話にはなりません。何故? *2:http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2012/120720_2.html 滋賀県大津市の公立中学2年生の自殺事件に関する日弁連会長声明 (2012年(平成24年)7月20日) (ポイント)2011年10月、滋賀県大津市の公立中学校2年生の男子生徒が自殺した事件及びそれを巡る社会の反応は、子どもの人権が守られない我が国社会の実情を露呈している。 第一は、子どもたちのSOSに対して教師を始めとする学校関係者が耳を傾けなかった問題である。報道によれば、男子生徒が継続的にいじめを受けていたことを多くの生徒が知り、教師に対応を求めていた生徒や、いじめに当たるような事実を認識していた教師がいたにもかかわらず、中学校は、いじめとは判断しなかったとされている。文部科学省は、2009年3月に『教師が知っておきたい子どもの自殺予防』と題する冊子を発表し、子どものSOSを的確に捉えること、校内対策チームによる適切なアセスメントや医師等の専門家との連携をとることなどを求めてきていたが、今回の事態は、文部科学省の指針が徹底されていなかっただけではなく、これらの対策の前提ともなる学校関係者の子どもの声に耳を傾ける姿勢、さらにはいじめを発見し止めさせる体制に大きな問題があったことを示している。 第二は、自殺が起きた後の中学校と教育委員会の調査の体制・方法に問題があったことである。文部科学省は、2011年3月に「平成22年度児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議審議のまとめ」を発表し、正確な自殺の実態把握のための報告書統一フォーマットを提案し、また、自殺が起きた場合に中立的な立場の専門家を交えた調査委員会を設置して調査を行う指針を示し、2011年6月1日、「児童生徒の自殺が起きたときの背景調査のあり方について(通知)」を都道府県教育委員会等に発している。ところが、報道によれば、中学校は、自殺の後、比較的短期間に2回にわたる全校生徒を対象とするアンケート調査を行い、いじめが存在し、それが男子生徒の自殺につながったことを示唆する複数の事実を把握していた。それを受けた大津市は、2011年11月、アンケート結果をもとに「複数の生徒のいじめがあった」と発表したものの、部内での検討のみで、自殺との因果関係については確認できないとしていた。専門家を交えた調査委員会は、本年7月になるまで設置されておらず、文部科学省の提案・指針が学校や教育委員会に徹底されていないことを示している。 第三は、学校や教育委員会の対応のまずさが加害者とされている生徒に対する社会の過剰なバッシングを引き起こし、加害者とされている生徒の人権が侵害される事態が起きていることである。生徒とその家族の実名や顔写真の公表をはじめとして生徒とその家族に対するバッシングは日を追うごとに激しさを増し、少年の健全な成長はおろかその生活の基盤そのものをも奪いつつある。・・中略・・ 第四に、教育現場におけるいじめに対する社会全体の理解の問題がある。そもそも、文部科学省が指摘しているように、教育の現場におけるいじめは、子ども同志の葛藤、軋轢などを背景にして、いつでもどの子どもにも起き得る現象である。これに加えて、国連子どもの権利委員会が指摘する我が国の競争主義的教育環境によるストレスの増大等の要因が加わり、いじめが深刻化していくのである。・・中略・・ 以上のような問題点があることを踏まえ、当連合会は関係者及び関係機関に対し、早急に適切な対策を講ずるよう求める。当連合会は、従前より子どもの権利委員会を設けて、子どもの人権の救済と援助活動を行ってきた者として、いじめ自殺が未だ発生してしまう現状を心から憂うとともに、子どもの相談窓口の全国設置、強化などのこれまでの取組に加えて、子どもの権利に関する包括的な法律(子どもの権利基本法)の制定、子どもの権利の救済機関の設置などの活動に全力を尽くすことを誓うものである。
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