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2013,12,19, Thursday
白村江 邪馬台国の場所 (1)「白村江の闘い」の敗戦とその後の話 玄海原発の近くは、*1のように、日本最古で最大の国家機密である「白村江の闘い」のために、中大兄皇子が百済に2万7千人の援軍を船出させた場所である。ここは、壱岐、対馬を経由すれば、古代の帆船で、朝鮮半島に最も安全かつ最短距離で航海できた場所だからであろう。福岡県・佐賀県には、それを示す神社や逸話が多い。 (2)日本の古代史では、真実が扱われていない しかし、この事実は、日本の高校歴史教科書では殆ど触れられておらず、韓国の高校歴史教科書(日本語訳有)では、詳しく書かれている。従って、日本人は知らないが、韓国人には常識だ。これは、特定秘密(機密)によって、1300年以上も、日本史の真実が曲げられている最大の事例だろう。 なお、*1に書かれているように、「白村江の闘い」の後、百済は滅亡し、新羅が朝鮮半島を統一して、倭国(日本)に亡命した百済人は、いろいろな闘いを経た後、日本の中枢に入った。しかし、その様子も日本史では正確に扱われていないため、日本の奈良時代より前の正確な史実については、日本人は知らないと言っても過言ではない。 (3)そこを明らかにすると、古代東アジアでの倭(日本)の位置づけがわかる *2に書かれているように、現在の博多駅と同じ場所に、1300年前も「駅」があったそうだ。また、玄海原発の近く(唐津市、玄海町、松浦郡)は、日本の弥生時代を記した魏志倭人伝によれば、末盧國(まつらこく:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E3%82%89%E5%9B%BD)であり、糸島は伊都国(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%83%BD%E5%9B%BD)であって、長くは書かないが、邪馬台国(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD)は大宰府の近くである。そのため、玄海原発の立地周辺地域は、歴史の真実が明らかになれば、日本史の中でも重要な地域であり、原発などなくても、観光地として整備して成り立たせることができると考える。 *1:http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm 白村江の戦い(要点) 倭国の援軍 ●663年 ①3月,中大兄皇子は百済に2万7千人の兵を3軍編成で送った。将軍は上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)、巨勢神前臣訳語(こせのかんざきのおみおさ)、阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ)。援軍は博多湾から壱岐・対馬を越え,朝鮮半島へ向かった。いつも海が穏やかで天気がよいとは限らない。時には荒れ,また,海の流れに逆らって進まねばならない。 ②8月28日:白村江(錦江-クムガン河口)で,唐軍と百済・倭国連合軍が激突。倭国軍は唐の水軍によってはさみうちにされ,軍船400隻は燃え上がり,大敗してしまう。(歴史上最初で最大の敗戦となった)。百済王(豊璋)は逃亡してしまう。 ③9月7日:百済が陥落し永遠に滅亡 ●668年 唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼした。その後,唐と新羅が対立。 ●672年 壬申の乱:日本古代最大の内乱戦争で、天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたとされているもので、大海人皇子が勝利した。 ●676年 新羅によって、朝鮮半島統一 <百済人は倭国(日本)へ> 唐との戦いで敗れ,祖国をなくした百済人たちは倭国に亡命した。滋賀県蒲生郡は百済人たちが多く住み着いたところ。石塔寺の三重塔は,百済の都,扶余(ふよ)にあった定林寺の五重塔の様式と同じといわれる。滅亡した百済の王族たちは奈良地方に逃れたが,その後の動乱から逃れるため再び九州地方を目指して船出した。一行は瀬戸内海で時化(しけ)にあい,九州東海岸の日向市金ヶ浜と高鍋町蚊口浦に漂着した。そして,山間部に入り,父の禎嘉王(ていかおう)は宮崎県東臼杵郡美郷町に王子の福智王(ふくちおう)は宮崎県児湯郡木城町に移り住んだと言われている。(旧南郷村の「百済王伝説」より)。神門神社(宮崎県東臼杵郡美郷町)は718年(養老2年)創建されたと伝えられ、祭神として百済の禎嘉王が祀られている。この神社で行われる行事として「師走祭り」がある。禎嘉王とその王子が1年に1度再会する様子を再現したものという。禎嘉王の墓とされる南北10m,東西10mの円墳がある。 ●694年 飛鳥浄御原から藤原京(着工時期:676年)に遷都 ●710年 藤原京から平城京に遷都 *2:http://qbiz.jp/article/28503/1 (西日本新聞 2013年12月8日) 博多駅移転50年、1300年前も「ここ」にあった 石井幸孝氏(NPO法人 福岡城市民の会 理事長) 12月1日、福岡市・祇園にあった博多駅が現在のところに引っ越して50年がたった。一昨年の2011年、九州新幹線鹿児島ルートが完成して、鹿児島から青森までの新幹線列島大動脈が完成し、また新しい駅ビルもできた。博多駅は九州内各都市はもちろん、全国と鉄道で直結している。至近の博多港からは韓国・釜山に高速船ビートルが出るし、地下鉄で5分の福岡空港からは国内主要都市やアジア、世界とつながっている。 ■ ■ ■ 日本最初の法制国家誕生ともいえる大化の改新(646年)後、大和朝廷による律令国家では、最重要事項として全国に幹線道路網をつくった。奈良・京都を中心にして6方面に延びる「山陽道」、「東海道」、「東山道」などのほか、九州は「大宰府」を中心にした道路網「西海道」、合わせて「五畿七道」と呼ばれた。全国6300キロ(今の高速道路と同じくらいのキロ数)、道幅12メートルの直線道路という驚くべきスケールだった。都と、「遠の朝廷」(とうのみかど)と呼ばれた大宰府を結ぶ「山陽道」(九州内は大宰府道と呼ぶ)は、唯一の「大路」という最重要幹線だった。全国に当時の30里(約16キロ)毎に400ほどの「駅家」(うまや)を置き、ここに飼い慣らされた馬を、「大路」の場合には20頭ずつ置いて、公務出張の場合にはこれを乗り継いで移動した。大宰府から都まで6日くらいで飛ばした。馬は人間が歩く速さの5倍くらいで走るので、まさに高速道路だ。 ■ ■ ■ 奈良時代(710年〜)の初めには全国網がほぼ完成して平安時代にかけて使用され、万葉集などの古文書にも出てくる。平安時代半ばの法令ともいえる「延喜式」には、駅名などが詳細に載っている。驚くなかれ、現在の博多駅と同じところに1300年前の「駅」があったことになる。「美野駅」と記され「よしのえき」と呼ばれたらしい。近くに今も美野島という地名が残っている。もっと厳密に言うと、この「美野駅」はいまの博多駅ビルと交通センターの接するあたりに十字路があって、その隣接地に駅家の施設があったらしい。「五畿七道」のことを今の学者は「古代官道」と呼び、最近では歴史地理学と考古学でその実態がわかってきている。大宰府から水城東門経由「美野駅」に至り、博多港に至る直線道路と、水城西門経由鴻臚館に至る直線ルートがあった。外交・軍事・貿易の最重要地域なので、二本つまり二重系になっている。今の筑紫通りと高宮通りである。山王公園の南西の道からは、古代官道の遺跡が発掘調査されている。この2ルートと直交する道は、都から来た「山陽道」が柚須、二股瀬から美野駅経由住吉神社門前を通り、西門ルートと直交して早良平野の直線道を進み、糸島から唐津、壱岐・対馬に至り韓国(当時新羅)と対する。美野駅は都とつながり、さらに大宰府経由九州内各国(肥前、肥後、薩摩など)とはもとより、博多港からは海路中国(当時は隋・唐)、さらに遠くシルクロードにつながっていた。美野駅の役割は今の博多駅とまったく同じだ。たいへん重要な「駅」だったので、馬の管理や飼育の大規模な役所があったに違いない。今も近くに「馬番所」という字名も残っている。
| まちづくりと地域振興::2011.8~2014.4 | 12:21 PM | comments (x) | trackback (x) |
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