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2015.3.27 地域産業の有田焼は、セラミックの利点を活かした発展的応用でも稼げそうである (2015年4月7日、17日、2016年1月10日に文と画像の追加あり)
    
  古伊万里   柿右衛門    今衛門      李三平        虎仙窯 
           (*画像は最もよい例示とは限りません)

(1)衆議院議員時代に有田町と伊万里市大川内山の窯元を廻った経験から
1)「料亭などへの従来の食器の売り上げが減って打撃」という悲鳴が多かった
 *1-1-1に記載されているように、有田焼は佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器で、その積み出しが伊万里港からなされていたことにより「伊万里」「伊万里焼」とも呼ばれ、17世紀(江戸時代で、日本全体としては鎖国中)から海外に輸出されていた。そういう伝統的でゴージャスな有田焼が上の画像で、それぞれの時代の最先端の技術を駆使して作ったと思われる。

 しかし、有田焼(伊万里焼)は、①主に高級食器を料亭に売ることで売り上げを挙げていたが、この需要が減少した ②電子レンジや食洗機に対応できていなかった ③丁寧に扱わなければかけやすかった などが理由で、近年、①の需要減に伴って売り上げが落ち、替わりの需要(都会の個人消費、輸出、他産業)はあまり増えていなかった。

 そのため、私は、替わりの需要に対応できるよう、有田焼のよさを残しながらも、現在の最先端の技術を導入して、②③の問題を解決すべきだと言って、「有田焼を理解しとらん」とか「食器は丁寧に扱わんと壊れるのが当たり前」などと言われたが、替わりの需要を開発すべく研究する人たちも出てきて、それらの問題は、現在、かなり解決済だと考えている。

2)世界市場で勝つ目標が必要であり、目標を持てば勝てるだろう
    
  深川製磁     香蘭社        源衛門           最近の変化形
           (*画像は最もよい例示とは限りません)

 もともと世界的視野を持っている有田焼・伊万里焼だが、*1-1-2のように、フランスのパリで開かれている世界最大のインテリア見本市「メゾン・エ・オブジェ」の会場で、有田焼と融合した映像作品を上映したり、*1-1-3のように、欧州国際見本市への出展や高級レストランでのPRといった海外市場開拓、食との連携や生活様式の変化に対応した国内市場開拓に、佐賀県が予算を計上したりしている。そして、現代の一般人の生活に合う花瓶や食器の事例は、上の画像のとおりだ。

3)芸術作品や先端産業への進出でも稼げるだろう
    
 四角形の皿   ピカソ絵画の有田焼     青磁による像        義歯
           (*画像は最もよい例示とは限りません)

 有田焼は、芸術として発展すべき部分と、食器をはじめとする産業として発展すべき部分を持つが、現在は、それが徹底していないように思う。しかし、それぞれの分野で追及されるべき機能は異なり、部屋の装飾には円形の皿ではなく、上の画像のようなものが面白くて洒落ている。

 そのうち、徹底して芸術分野に進出して成功しているのが、*1-2の有田焼で商品化されたピカソの絵だ。これは、あまりにも気に入ったので、私も2つ買って部屋に飾ってあるが、うちに来たお客さんは、それを本物だと思っていた。そして、この有田焼に転写された絵は、長時間経過しても痛まず、洗えば汚れが落ちるのが長所だ。

 つまり、有田焼になった絵は、色が退色したり、キャンバスが痛んだりすることがないため、有名な絵を有田焼に転写しておくことは大きな価値がある。また、ロンドンの大英博物館でロゼッタ石と同じ模様の絹のスカーフを売っており、私は大英博物館に行った時にそのスカーフを買ってきて今でも愛用しているが、著名な絵や彫刻を所蔵している美術館や博物館で、そこにある絵や彫刻を質の良い有田焼にして販売すればお土産として売れるだろうし、後世のために貴重な絵を有田焼にしておくことも重要だ。

4)立体への進出
 有田の職人は、どんな形でも作れることを誇りにしている。そのため、現在も、義歯や立体に進出しているが、*1-3-1のような3Dプリンタを使って、義歯や有名な彫刻の有田焼を作れるようになれば、生産の効率化と質の高さを両立させることができるだろう。さらに、*1-3-2のように、量産することも可能であり、佐賀県窯業技術センターの開発チームはアッパレだ。

5)障害者の雇用もしている
 ここで付記しておきたいのは、現在も、伊万里市で有田焼を作るのに、印刷した絵の貼り付け作業に障害者を雇用しており、私は、2007年8月17日に、伊万里市議の案内でその作業所を訪ねて感心した(http://hirotsu-motoko.com/weblog/index.php?d=20070817 参照)。しかし、その絵のデザインは安っぽかったため、安価な有田焼しかできておらず、私は、貼り付ける絵のデザインさえよければ、もっと高価なものも作れると思っている。

(2)金融について
 *2-1のように、有田焼の「大慶」が、販売する電子レンジで利用できる磁器「UTSUWA美」の型や材料の費用として活用するためネットで資金調達したところ、わずか2日間で171万円の小口資金を集めることができたそうだ。確かに電子レンジやオーブンでそのまま使用できることは、新たな食器需要の開拓には重要であり、その視点が評価されたのだろう。

 また、出資者に対する配当としては、ビアグラスだけでなく相手の希望に応じた有田焼の新製品を贈る方法もあるだろうし、有田町や伊万里市のふるさと納税の返礼品も、有田焼(伊万里焼)の面白い製品とすれば人気が出るのではないだろうか。

 なお、*2-2のように、佐賀県は制度金融のすべての貸付金利を最大で0.9%引き下げる優遇措置を設けたそうだ。時代の変化について行くためには、新製品の開発やマーケティングのための資金需要が大きいため、将来的にも貸しはがしで企業を破綻させることのない見識ある金融で、地元企業を発展させてもらいたい。

(3)この地域の農産物について
 伊万里市は、*3-1のように、ナシの産地でもある。私は、綿棒で花粉をつけるより、ミツバチを放してナシ由来のハチミツを副産物にすればよいと思うが、ともかく農業でも頑張っている。

 また、*3-2のように、長崎県では、放棄ミカン園を集積して10~20ヘクタール規模のミカン団地を造り、「売れる品種」への転換を進めるなど一生懸命だが、現在は、ミカン園も多くが耕作放棄地になっているのだ。しかし、私は、一世代前のややすっぱさのあるミカンは、みかんジュースに向いているし、みかん由来のハチミツも美味しいため、無理に植え換えの補助金を使わなくても、過去に造られた資産を活かしてジュースやハチミツ作りをする人がいてもよいと考える。

(4)原発の地元になるのは適切か
 このように、この地域は、過去の遺産と貴重な産業が多い。そのため、原発事故が起これば、失うものは計り知れない。そのため、*4-1のように、伊万里市長は、地元として原発再稼働には慎重であり、それは当然のことだ。

 また、*4-2のように、玄海原発訴訟(市民が国と九州電力に玄海原発の再稼働反対と日本の原発停止を求めている訴訟)の追加提訴で、原告数は9,126人となったそうで、原告には元日弁連会長の宇都宮健児氏や、福島第1原発事故の被害に関する著書を出版した福島県飯舘村の酪農家長谷川健一さんらも新たに加わられたそうだ。

*1-1-1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%94%B0%E7%84%BC (ウィキペディア)
 有田焼は、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である。その積み出しが伊万里港からなされていたことにより、「伊万里(いまり)」や伊万里焼とも呼ばれる。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、皇室に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。1977年(昭和52年)10月14日に経済産業大臣指定伝統工芸品に指定。九州旅客鉄道(JR九州)佐世保線有田駅-上有田駅間の沿線から煙突の立ち並ぶ風景が見られる。
●有田焼と伊万里焼
 近世初期以来、有田、三川内(長崎県)、波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里」と呼ばれていた。また英語での呼称も "Imari" が一般的である。寛永15年(1638年)の『毛吹草』(松江重頼)には「唐津今利の焼物」とあり、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指すと考えられている。明治以降、輸送手段が船から鉄道等の陸上交通へ移るにつれ、有田地区の製品を「有田焼」、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と区別するようになった。有田を含む肥前磁器全般を指す名称としては「伊万里焼」が使用されている。
●肥前磁器生産の開始
 肥前磁器の焼造は17世紀初期の1610年代から始まった。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、有田を含む肥前の領主であった鍋島直茂に同行してきた陶工たちの一人の李参平は、1616年(元和2年)(1604年説あり)に有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、有田焼の祖である。李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物である。有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社もある。近年の学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い1610年代前半から、西部の天神森窯、小溝窯などで磁器製造が始まっていたことが明かになっている。この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器(初期伊万里)を作っていた。「染付」は中国の「青花」と同義で、白地に藍色1色で図柄を表した磁器である。磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須」(焼成後は藍色に発色する)で図柄を描き、その後釉薬を掛けて焼造する。当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから焼成技術は朝鮮系のものとされる。一方で17世紀の朝鮮ではもっぱら白磁が製造され、染付や色絵の技法は発達していなかったため、図柄は中国製品に学んだと考えられ、絵具の呉須も中国人から入手したものと考えられている。1637年(寛永14年)に鍋島藩は、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、多くの陶工を廃業させて、窯場を有田の13箇所に限定した。こうして有田皿山が形成された。この頃までの有田焼を美術史・陶芸史ではしばしば初期伊万里と称する。陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴である。
●色絵磁器の登場・発展
 その後1640年代に中国人陶工によって技術革新が行われ、1次焼成の後に上絵付けを行う色絵磁器が生産されるようになった。伝世品の「古九谷様式」と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品群は、かつては加賀国(石川県)九谷の産とされていたが、20世紀後半以降の窯跡の調査により、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占めることが分かっている。ただし従来言われていた加賀国(石川県南部)での生産も、1650年代から20年間程ごく小規模に行われていた(この産地問題については、別項「九谷焼」を参照)。なお、ほぼ同時期には有田の技術を基に備後福山藩で姫谷焼の磁器が20年間ほど生産されていた。色絵蓋付大壷(江戸中期)17世紀後半、1660年代から生産が始まったいわゆる柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたものである。この種の磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、研究の進展により、この種の磁器は柿右衛門個人の作品ではなく、有田の窯場で総力をあげて生産されたものであることが分かっており、様式の差は窯の違いではなく、製造時期および顧客層の違いであることが分かっている(日本国内向けの古九谷様式に対し、柿右衛門様式は輸出に主眼が置かれていた)[2]。17世紀後半には、技術の進歩により純白に近い生地が作れるようになり、余白を生かした柿右衛門様式の磁器は輸出用の最高級品として製造された。17世紀末頃からは、金彩をまじえた豪華絢爛な「金襴手」も製造されるようになった。有田の金襴手は中国明代後期の嘉靖・萬暦期の金襴手をモデルにしている関係から、皿底の銘に「大明嘉靖年製」「大明萬暦年製」とあるものが多いが、これは当時の陶器先進国中国製のイミテーションのためにデザインの一部として取り入れたものであると考えられている。また、17世紀末頃から波佐見を中心に、焼きの歩掛かりをよくするための厚手の素地にコストを安く上げるために簡略化された同じ紋様を描き込んだ碗類を大量に生産した。安価で流通したこれらの碗は、当時出現して人気を得た屋台でも食器として使用された。当時の屋台が「喰らわんか」と客引きをしていたことから、波佐見窯で焼かれた安価な庶民向けの磁器を「くらわんか碗」と呼ぶ。一方、「鍋島焼」は日本国内向けに、幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた藩窯である。鍋島藩の藩命を懸けた贈答品であるだけに、採算を度外視し、最高の職人の最高の作品しか出回っていないが、時代を下るにつれて質はやや下がる。作品の大部分は木杯形の皿で、日本風の図柄が完璧な技法で描かれている。高台外部に櫛高台と呼ばれる縦縞があるのが特徴。開始の時期は定かでないが、延宝年間(1673年頃)には大川内山(伊万里市南部)に藩窯が築かれている。当初、日本唯一の磁器生産地であったこれらの窯には、鍋島藩が皿役所と呼ばれた役所を設置し、職人の保護、育成にあたった。生産された磁器は藩が専売制により全て買い取り、職人の生活は保障されていたが、技術が外部に漏れることを怖れた藩により完全に外界から隔離され、職人は一生外部に出ることはなく、外部から人が入ることも極めて希であるという極めて閉鎖的な社会が形成された。しかし、磁器生産は全国窯業地の憧れであり、ついに1806年に瀬戸の陶工加藤民吉が潜入に成功し、技術が漏洩する。以降、瀬戸でも磁器生産が開始され、東日本の市場を徐々に奪われていく。江戸末期には全国の地方窯でも瀬戸から得た技術により磁器の生産が広まっていく。しかし、日本の磁器生産トップブランドとしての有田の名は現在に至るまで色褪せていない。また、江戸時代の有田焼を一般的に古伊万里と称する。
●海外への輸出
 磁器生産の先進国であった中国では明から清への交替期の1656年に海禁令が出され、磁器の輸出が停止した。このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、1647年には中国商人によってカンボジアに伊万里磁器が輸出され、1650年には初めてオランダ東インド会社が伊万里焼(有田焼)を購入し、ハノイに納めた。これによって品質水準が確認され、1659年(万治2年)より大量に中東やヨーロッパへ輸出されるようになった。これら輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まった茶、コーヒー、チョコレートのためのセット物までもあった。こうして17世紀後半から18世紀初頭にかけて最盛期を迎えた有田の磁器生産であるが、1684年の展海令などで景徳鎮窯の生産・輸出が再開され軌道に乗るにつれて厳しい競争に晒されることとなる。また、江戸幕府が1715年に海舶互市新例を制定し貿易の総量規制を行った事から、重量・体積の大きい陶磁器は交易品として魅力を失う。最終的には1757年にオランダ東インド会社に対する輸出は停止され、以降は日本国内向けの量産品に生産の主力をおくこととなる。今日の我々が骨董品店などで多く目にするのは、こうした18世紀の生産品であることが多い。19世紀は明治新政府の殖産興業の推進役として各国で開催された万国博覧会に出品され、外貨獲得に貢献する有田焼に期待が集まった。この輸出明治伊万里は第四の伊万里様式美として研究され、確立されつつある。万国博覧会の伊万里と称される。
●酒井田柿右衛門
 酒井田柿右衛門家は、鍋島焼における今泉今右衛門とともに、21世紀までその家系と家業を伝えている。1982年に襲名した14代目は重要無形文化財「色絵磁器」の保持者として各個認定されている(いわゆる人間国宝)。また、柿右衛門製陶技術保存会が、重要無形文化財「柿右衛門」の保持団体に認定されている。今日においては「柿右衛門」を襲名しても戸籍名の変更まではしないが、酒井田姓は本名であり、嫡子相伝の伝統は変わっていない。14代目が2013年に没した後、2014年2月4日に長男が15代目となる柿右衛門となった。
●「手描き」と「転写」
 有田焼には酒井田柿右衛門が創始した伝統的な技術である「手書き」と、大量生産とコスト削減を目的とした「転写」の技術が存在する。 手描き作品は相対的に手間がかかり、作家の技量や個性が反映されるため美術品や陶芸作品として販売される場合が多い、転写作品は品そのものに対する価値は低いものの価格が安い場合がある。また、一部を手書きで行い、他の部分を転写とする方法も行われている。すべての行程を手書きで行った作品は総手書きと呼び、プリント印刷である転写と比較し完成まで時間が非常にかかる。(転写の技術はデカールを参照) しかし、一概に転写作品は値段が低いという事もない。手描きと転写は手に持った手触りから簡単に見分けることができる。特に手描き作品では絵具が隆起しており、作陶家の心髄を感じることができる。一方、転写作品は全体的にのっぺりとしており、滑らかな感触を味わう事で判断することが可能。(以下略)

*1-1-2:http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/149277
(佐賀新聞 2015年1月25日) 有田焼の世界、CGで解き放つ パリ見本市
 CG技術を駆使したデジタルアートを手掛ける「チームラボ」(猪子寿之代表)は、フランス・パリで開かれている世界最大のインテリア見本市「メゾン・エ・オブジェ」の会場で、有田焼と融合した映像作品を上映している。見本市の20周年記念企画として、器の絵柄を映像で浮き上がらせる技術を使い、幻想的な空間を演出している。会場のエントランスに、有田焼でお茶などが楽しめるスペースを開設。染付、色絵などの茶わんや皿、カップなどをテーブルに置くと、器の絵柄をモチーフにした映像が一帯に広がる。絵柄の鳥が天井や壁面に映し出され、別の器から浮かび上がった木に止まるなど、器や人の動きに反応して映像が次々と変わる仕組みで、多くの来場者を魅了している。チームラボは、プログラマーや建築家、ウェブデザイナーらでつくる技術者集団。昨年3月には九州陶磁文化館(西松浦郡有田町)など県内の4会場で巡回展も開いた。見本市は27日まで。猪子代表は「有田焼の凝縮された美しい世界を空間に解き放ち、世界に大きなインパクトと感動を与えたい」と話している。

*1-1-3:http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/170689
(佐賀新聞 2015年3月27日) 有田焼400年の県実行委、欧州市場開拓など予算計上
 佐賀県有田焼創業400年事業実行委員会が26日、県庁であり、欧州国際見本市への出展や海外デザイナーとの商品開発事業など6億8100万円の予算案を承認した。国際見本市出展や高級レストランでのPR事業といった海外市場の開拓、食との連携や生活様式の変化に対応した国内市場開拓などに3億7900万円を計上した。このほか、人材育成などを進める産業基盤整備事業費に1億8600万円、国内外にPRする情報発信事業に1億1400万円を盛り込んだ。予算案を承認後、委員として参加している有田町、武雄市、伊万里市、嬉野市などからは「2016年以降の県事業をどう考えているか」「県民が一緒に盛り上がれるような企画が必要」などの意見が上がった。県は16年以降の事業も検討する考えを示した上で「県内での認知度はまだ高くないので、地元有田町などと、事業者ではなく一般県民も楽しめるような事業を考えたい」とした。

*1-2:http://www.arita.gr.jp/shop.html (篠英陶磁器 株式会社:TEL0955-43-3351、FAX0955-43-3352、HP http://www.shinoei.com/)
 有田焼の伝統継承に注力し、1986年にピカソの絵、1993年にジョン・レノンの絵の商品化権を獲得、有田焼で商品化し好評発売中です。

*1-3-1:http://news.mynavi.jp/kikaku/2014/12/09/002/ 伝統産業がデジタルと出会うと何が起こるのか? - 有田焼の職人育成を担う有田窯業大学校が3Dプリンタを導入
 近年、急速に耳目を集めるようになってきた3Dプリンタだが、現在その注目は「何ができるのか」ではなく、「どういったことに使うのか」という点へと移行している。例えば産業界では、従来のラピッド・プロトタイピング(RP:迅速な試作品づくり)だけでなくDDM(Direct Digital Manufacturing=3Dプリンタで最終製品を製作すること)による治具などの作製などにも使用されるようになってきており、開発・生産の効率化に貢献している。従来の工程に3Dプリンタを組み込むことで、開発・生産の効率化を図る取り組みは伝統産業でも始まっている。今年10月、佐賀県・有田町に位置する佐賀県立有田窯業大学校が、大手3Dプリンタメーカー・ストラタシスの日本販売代理店であるアルテックより3Dプリンタを購入した。有田は日本の磁器発祥の地と呼ばれ、国から伝統工芸品に指定されている有田焼10+ 件は世界的にも有名だ。有田焼の歴史は古く、2016年には誕生から400周年を迎える。同校は陶芸家や陶磁器デザイナー、陶磁器商品企画、指導者など有田焼10+ 件をはじめとする陶磁器の生産に関わる人材の育成を長年にわたって担ってきた。陶磁器産業のこれからを支える人材を育成する有田窯業大学校が、なぜ3Dプリンタの導入に至ったのか、同校でCAD/CAMを担当している関戸正信主査に話を伺った。
●異業種とのコラボという新しいニーズ
 同校が3Dプリンタを導入した背景には、有田焼を取り巻く状況の変化がある。
「陶磁器業界にはグラフィックやインダストリアルなど、いろいろな産業のデザイナーからデザインを有田焼で実現できないかというデザインデータの持ち込みがある」と関戸氏は語る。インターネットが普及し、情報の発信力が高まったことで、他業界とのコラボレーションが活性化しているのである。
持ち込まれたデザインのブラッシュアップにはCAD/CAMが利用されるが、従来の有田焼10+ 件の枠組みではそうしたスキルを完全にはカバーできていなかった。有田窯業大学校は新しいニーズに対応するための新たなスキルの習得が必要との方針に基づき、今年の10月に2年生向けのCAD/CAMの授業を新設。デザインの検証を目的として3Dプリンタの導入に至ったという。
●Polyjet方式の利点を生かしてデザイン検証を効率化
 磁器を生産するためにはまずデザインを決定し、そのモックアップをマスタとして型を取る必要ある。同校ではそれまで磁器の原型製作において、表面処理に時間がかかることや、寸法精度の限界に課題を感じていた。また、強度や対摩耗性もより強いものが求められていた。
今回導入された「Objet30Pro」のPolyjet方式は、表面の平滑さや、扱う素材の吸水性が少なく、多孔質ではないというメリットがあり、成形したモックアップで機能テストが行える。また、非常に高精度なため、出力したものをそのまま原型として使用することができるというメリットもあり、これらの特徴により、デザインの検証期間が短縮されることが確認され、その結果としてデザイン自体の幅を広げることにもつながったという。

*1-3-2:http://qbiz.jp/article/58776/1/
(西日本新聞 2015年3月26日) 3Dプリンターで陶磁器量産? 佐賀県窯業技術センターが開発
 佐賀県窯業技術センター(同県有田町)は25日、3Dプリンターで有田焼の主原料の天草陶石を使い、陶磁器を量産する技術の開発に成功したと発表した。「型」を使わない3Dプリンターでの生産は、プラスチックなどではできたが、陶磁器原料で成功したのは国内初という。センターは「2016年に創業400年を迎える有田焼の次の100年につながる技術開発」としている。有田焼など陶磁器の量産は石こうの型に陶土を入れて作るのが一般的だ。開発は2013年度に着手し、2年がかりで成功にこぎ着けた。完成品の立体画像をコンピューター上で制作し3Dプリンターで出力すると、天草陶石の粉末がまかれ、その上に製品の形に沿って接着剤が噴霧される。それを繰り返すと層が積み重なり、徐々に製品が形成される仕組みだ。取り出した生地を1300度で焼成すると完成する。現在は通常の磁器の20%ほどの強度で、造形の精度、自由度も今後改良が必要だが、鎖状につながったり穴が多数開いたりした複雑で細かい形でも製作が可能になる。1個数万から数十万円する型の製作費や手間も省け、少量生産時のコスト削減に有力な手段として期待がかかる。開発したデザイン担当係長の副島潔さん(49)は「有田焼が創業400年を迎える16年内には実用化を目指したい」と話した。

<佐賀県の制度金融>
*2-1:http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10103/167159
(佐賀新聞 2015年3月17日) 有田焼「大慶」、ネットで資金調達
■クラウドファンディング県の支援第1号
■わずか2日で171万円
 インターネットを通じて小口資金を集める佐賀県の「クラウドファンディング(CF)」支援事業で、第1号となった有田焼商社のファンドが目標金額を集めた。有田焼創業400年事業の一環で、県が関与することによって企業がCFに参入するハードルを下げるのが狙い。今回をモデルケースとして、普及に力を入れる。西松浦郡有田町の商社「大慶」のファンドを2月25日、運営会社「ミュージックセキュリティーズ」(東京)が立ち上げ、わずか2日後に目標の171万円に達した。資金は、大慶が販売する電子レンジで利用できる磁器「UTSUWA美」の型や材料の費用として活用する。CFは本来、運営会社と企業による民間の取り組みだが、県内では知名度が低く、利用実績が少なかったため、県が本年度から支援に乗り出した。昨年8月に投資型ファンドを運営するミュージックセキュリティーズと覚書を結び、有田町などでセミナーを開催。ファンド立ち上げにかかる費用の一部を補助している。短期間での資金調達について県有田焼創業400年事業推進グループは「商品とサービスに魅力があったのが理由」と分析する。UTSUWA美は電子レンジに加え、高温になるオーブンでもそのまま使用できるのが特徴。大慶は出資者に対して、売り上げに応じて配当金を支払うほか、ビアグラスなどの特典も付けた。同グループは取り組みの効果として、有田焼ファンの掘り起こしや販売ルートの開拓に加え、補助金などに頼らない長期的な資金の受け皿づくりを挙げる。大慶に続くファンドの計画が進んでいるものの、CF参入に手を挙げる企業はまだ少なく、県は来年度も事業を継続する。大慶の森義久社長は「CFの存在は知っていたが、運営会社のことはよく分からず、県が間に入ってくれなければ実現しなかった。金額を増やして新たなファンドにも挑戦してみたい」と話す。

*2-2:http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10103/165396
(佐賀新聞 2015年3月12日) 県制度金融、過去最低金利に 中小企業の新事業支援
■限度額引き上げ、貸付対象拡大も
 国の成長戦略や長期金利の低下を受け、佐賀県は制度金融のすべての貸付金利を最大で0・9%引き下げる優遇措置を設けた。10日以降の融資分が対象で、限度額の引き上げや貸付対象の拡大など融資メニューも一部拡充。中小企業の資金調達を円滑にして設備投資を促し、生産性向上などの経営改善を支援する。各メニューともこれまでで最も低い金利になる。「異次元の金融緩和」などで長期金利は歴史的低水準となり、県制度融資の金利の割高感が強まっていた。地方への波及を目指す国の経済対策にも呼応。中小・零細事業者が資金を借りやすくして、成長が期待される新分野への参入を後押しする。県商工課は「新事業の支援を目的とした大幅な制度見直しは初めて」としている。優遇措置は、10日の融資受け付け分から適用。金融機関への預託金を積み増しし、貸付金利を従来から0・2~0・9%引き下げた。県と金融機関、信用保証協会の3者が連携してリスクを分散。融資後も商工会などの支援機関が経営指導することで貸し倒れリスクを軽減する。2015年度の融資枠は、全体で200億円。企業に応じて決まる信用保証料率も一部で引き下げた。貸付金利の引き下げ幅が最も大きいのは、物的担保が原則不要で利用が最も多い「小規模事業貸付(一般資金)」。現行2・2%を1・3%に下げ、限度額は1600万円から2千万円に引き上げた。使途を限定していない「中小企業振興貸付」は2・4%を1・8%にした。成長分野への参入を支援する「経営基盤強化資金」では、観光客誘致や海外への専門家派遣による商品開発などにも貸付対象を拡大。限度額5千万円の設備投資促進枠も新設した。追加借り入れを前提に、運転資金の借り換えを促す「円滑化借換資金」は、限度額を3千万円増やして8千万円にし、融資枠も10倍の115億円に増額した。融資の申請は、各地域の商議所や商工会などで受け付ける。県商工課は「金融機関と保証協会との三位一体で信用リスクと潜在力を見極め、前向きに新規事業への展開を図る企業をサポートしていきたい」としている。問い合わせは同課金融担当、電話0952(25)7093。

<農産物>
*3-1:http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10105/163707
(佐賀新聞 2015年3月7日) ナシの花満開 生産農家、授粉作業ピーク 伊万里市
 西日本有数のナシ産地の伊万里市で、ハウス栽培のナシの花が満開となり、生産農家は授粉作業に追われている。JA伊万里梨部会長の松本健一郎さん(64)=大川町大川野=のハウスは2月下旬から早生種の幸水が真っ白な花を開き、春色に包まれている。妻良子さん(60)や梨部会大川支部の役員らも手伝い、綿のついた棒に花粉をつけ、めしべに優しく押し当てる作業を丁寧に繰り返した。授粉作業の20~30日後には小さな実ができ、その後、大きく品質の良い果実にするために余分な実を半分ほど摘み取るという。出荷は6月下旬から始まる。ここ数年は関東地方のナシが出荷時期を早めた影響で、単価が大幅に下落している。松本さんは「今冬は関東の寒さが厳しいので出荷時期が遅れるかもしれない。期待を持ちながら、他産地に対抗できる良いナシを出したい」と話した。

*3-2:http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=32159 
(日本農業新聞 2015/2/21) 放棄ミカン園集積 農地バンク活用 団地化で産地“若返り” JA長崎せいひ、生産部会
 長崎県のJA長崎せいひと同JA大西海みかん部会が耕作放棄園を農地中間管理機構(農地集積バンク)で集積し、担い手の規模拡大につなげようと動きだした。農地集積バンクを使って園地の権利関係を明確化した上で、西海市西彼町の2地区に10~20ヘクタール規模のミカン団地を造る。担い手が改植をしやすい環境を整えることで「売れる品種」への転換を進め、ミカン産地の“若返り”を目指す。モデル地区の一つ、西彼町白崎郷では、53戸の計19ヘクタールを集積する。地区では、高齢化やミカン価格の低迷から生産者が減少し、地権者53人のうち、ミカンを栽培しているのはわずか5、6人。園地の多くを耕作放棄地や地域外からの入り作が占める。未相続地も多く権利関係が複雑で「地域の担い手が園地を引き受けようにも手が出せない」(JA)状態にあった。そこで地権者との調整役を果たしてきたJAと部会が、2014年10月に事業推進委員会を立ち上げた。産地を維持する観点から、地権者、耕作者に対して園地の集積を提案。農地集積バンクの関連事業で、農地を集積した地域に支払われる「地域集積協力金」を引き合いに出し、地区内の合意を取り付けた。15年度中の集積完了を目指し、話し合いを進めている。園地の借用期間は、一般的に水田で設定する10年と比べて長い15年以上とする方針だ。同地区でミカン40アールを栽培する事業推進委員会の山脇初良会長は「規模拡大には生産性を上げる基盤整備や改植が欠かせない。園地が出来上がった頃に『返せ』と言われないよう、長く借りられる保証が必要だ」と説明する。園地を集積した後は、18年着工を目標に国や県、市町村が事業費を助成する農業競争力強化基盤整備事業など活用して団地を整備する。整備後は糖度の上がりやすい早生品種への改植を進めるとともに、2、3ヘクタール規模でミカンを栽培する専業農家を育成する方針だ。平地が少なく果樹栽培が盛んな西海市では、ミカン団地化の構想に加え、市農業振興公社でも園地の集積に力を入れている。公社が2月までに集積した農地14ヘクタールのうち3ヘクタールは果樹園で、園地のある西彼町の2戸が受け手となった。公社で農地集積を受け持つ山口用一郎担当は「市内には権利関係がはっきりしない園地が多い。農地集積バンクなど新事業を使って農地の受け手を明確にしておくことが、耕作放棄防止にもつながる」と、モデル地区外の園地でも農地集積バンクの活用を呼び掛ける。

<原発の地元について>
*4-1:http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/167395
(佐賀新聞 2015年3月18日) 伊万里市長、安全協定で知事に積極関与要望
●玄海原発は「地元」
 伊万里市の塚部芳和市長は17日、山口祥義知事と面会し、市全域が玄海原発(東松浦郡玄海町)の30キロ圏内に入ることから「地元」と位置づけた上で、九州電力と立地自治体並みの安全協定締結ができるよう積極的な関与を要望した。県が再稼働を判断する際、市への説明と意見聴取も求めた。山口知事は安全協定が未締結の現状は問題とし、今後、協議していく考えを示した。地元の範囲は国の考え方などを踏まえて検討する意向を伝えた。伊万里市は県内の20市町で唯一、九電と安全協定を締結していない。塚部市長と山口知事が原子力政策をめぐり面会するのは初めて。塚部市長は、九電との安全協定に関し、20回以上協議を重ねているものの締結に至っていない現状を説明した。「九電に対し、再稼働の前に協定を結ぶべきと進言していただければ」と協力を要請した。山口知事は「今の状態がいいとは思わない」とし、福島事故以降、全国で締結された協定や覚書なども参考にし、「さまざまな形で議論していければいい」と応じた。市長は、避難道路の整備など原子力防災対策への財政的支援も要請した。面会後に会見した塚部市長は「市としてもいろいろな安全協定のあり方を検討する。立地自治体並みの事前了解権を県が担保するようなやり方もあるのでは」との考えも示し、県や九電と協議していく方針を語った。

*4-2:http://www.saga-s.co.jp/column/genkai_pluthermal/20201/170537
(佐賀新聞 2015年03月26日) 玄海原発訴訟、追加提訴で原告数9千人超に
■佐賀地裁、13回目提訴
 原発の再稼働に反対する市民が国と九州電力に玄海原発全4基の操業停止を求めている訴訟で、新たに247人が26日、佐賀地裁に追加提訴した。13回目の提訴で、原告数は9126人となった。原告には元日弁連会長の宇都宮健児氏や、福島第1原発事故の被害に関する著書を出版した福島県飯舘村の酪農家長谷川健一さんらが新たに加わった。原告の内訳は福岡県が5009人で最も多く、佐賀県は1869人。九州以外からも約千人が入っている。


PS(2015年4月7日追加):衆議院議員時代に、私は有田焼卸団地に挨拶廻りに行き、①素晴らしい食器がふんだんにあること ②それにもかかわらず卸団地が空いていること に驚くとともに、ゆっくりと有田焼を拝見し、生産者に話を聞く機会を得た。現在、有田町は「ふるさと納税」のお礼に有田焼を採用していないが、有田焼卸団地協同組合と有田町商工会議所が協力して、現在の有田焼に関する広報も兼ね、「ふるさと納税」のお礼に気の利いたおしゃれな有田焼を採用してはどうだろうか。

*5:http://www.saga-s.co.jp/column/economy/22901/174427
(佐賀新聞 2015年4月7日) 卸団地40年で記念式典「有田焼400年復活へ好機」
 有田焼卸団地協同組合(山本幸三理事長、23社)の団地開設40周年記念式典が3日、西松浦郡有田町赤坂丙の同組合会館で開かれた。有田焼創業400年を来年に控え、県や町と連携して節目の年を盛り上げていくことを誓った。式典には、組合員や窯業関係者ら約70人が出席。山本理事長は、売り上げが最盛期の6分の1になるなど厳しい状況が続く焼き物業界の現状に触れ、「来年は業界復活への大きなチャンス。組合員全員で力を合わせ、次の50年、100年を目指したい」とあいさつ。40周年記念事業として、看板の付け替えなどで来場者の利便性向上を図ることや商品購入者へのプレゼント企画などを発表した。同組合は1973年、焼き物卸商社20社とダンボール製造3社で設立。75年にショールームを兼ねた卸団地を現在地に開設した。2005年からは、焼酎グラスやカレー皿などを窯元と共同開発したオリジナルブランド「匠の蔵」シリーズを販売している。


PS(2015年4月17日追加):*6-1のように、ヨーロッパはじめ外国で売る時は、絵画部門は版画や日本画も人気がでるのではないかと思うし、*6-2のように、軽くて強い強化磁器にした方がよいのは、給食用磁器だけではないだろう。

    
             版画                  上村松園           源氏物語絵巻
   (*例えば上のように、日本の作品にも有田焼版にして輸出するのに向いたものが多い)

*6-1:http://qbiz.jp/article/60351/1/
(西日本新聞 2015年4月16日)ミラノで有田焼400年事業をPR 佐賀県、家具見本市で
 【パリ国分健史】佐賀県は14日、イタリア・ミラノで開催中の世界最大級の家具見本市「ミラノ・サローネ」で、有田焼の窯元・商社と国内外のデザイナーが新商品を開発する事業について、現地マスコミ向けの発表会を開いた。有田焼創業400年事業の一環。ミラノ・サローネで新商品を発表する2016年に向け、現地で周知を図ろうと開いた。15、16日も同様の発表会を開く。県の同事業推進グループによると、初日の14日は約40人が参加。新商品の開発に取り組んでいるデザイナーなどが取り組み内容を説明した。参加者からは「地場産業と世界のデザイナーが結びついた新たなプロジェクトで、世界の産業のモデルになる」などの声があった。

*6-2:http://www.saga-s.co.jp/column/economy/22901/177882
(佐賀新聞 2015年4月17日) ショールーム29日オープン 給食用強化磁器の匠
 給食用強化磁器食器を製造、販売している「匠」(西松浦郡有田町、西山典秀社長)は29日、同町南原丁の国道35号バイパス沿いにショールームをオープンする。イベントなどを通して、有田焼の魅力を発信する。ショールームは、2階建て延べ床面積約510平方メートル。1階には自社の食器を展示。2階は企画スペースとして、窯元や勉強会の作品発表に活用する。隣接する事務所や倉庫を含め、空き物件となっていた土地建物を日本政策金融公庫の「中小企業経営力強化資金」の融資を受けて買い取り、整備した。西山社長は「来年の有田焼創業400年に向け、企画を練り、地域の熱気を伝えたい」と節目の年の盛り上げに意欲を見せた。


PS(2016年1月10日追加):磁器発祥の地、有田では、*7-1、*7-2のように、今年が創業400年であり、有田町の関係者は産地の再興や海外での販路拡大を目指して決意を新たにしたそうで、私は心から応援したい。しかし、灯籠であれば光を灯した後の見え方が大切であるため、下の段のエミール・ガレ(フランスのガラス工芸家)の作品のようにガラス質の材料を多く使って透明度を高め、三次元の造形美を創った方がよいのではないだろうか。ちなみに、ガレの作品はガラス製品だが、壺や花瓶も素敵だ。
 現在、有田焼は、東京の日本橋三越、大阪の梅田阪急、福岡三越など日本の高級百貨店で展示会を開催しているが、今後は、磁器発祥の景徳鎮を有する中国、マイセンを有するドイツ、ウェッジウッドのイギリスなどの百貨店でも展示会をしたらよいと思う。その理由は、こういう地域の人々は磁器を使う習慣や選択眼があること、有田焼の作者も世界で刺激を受けた方が良いことなどだ。

     
             2016.1.10西日本新聞(*7-2)より

       
          フランスのガラス工芸家、エミール・ガレの作品

       
   (翠玉白菜)
      
       台湾の故宮博物院に所蔵されている主に中国陶磁器の名品

*7-1:http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/262161
(佐賀新聞 2015年12月22日) 有田焼400年 事業概要まとまる、記念式典や展示会多彩に
 来年の有田焼創業400年に向けた西松浦郡有田町の実行委員会(委員長・山口隆敏町長)の事業概要がまとまった。秋に有田焼の歴史や現在を概観する展示会を企画し、10月22日の記念式典・レセプションでは、講演会や有田焼の器と地元食材を使った会食などで400年を盛り上げる。21日の実行委員会で報告された。記念式典・レセプションは、有田町の焱の博記念堂で開く。中韓など4カ国の大使や窯業界、国・県の関係者ら300人超を招待する。翌日は有田皿山まつりと連携した町民向けの「400年感謝祭(仮称)」を検討している。展示会は、住民が企画したイベントを集めた「有田まちなかフェスティバル(10~11月)に合わせて開催する。人間国宝ら有名作家から有田の未来を担う子どもたちまでの作品を並べるほか、新商品開発の軌跡など多彩な展示を計画する。期日は未定。有田焼の名品展示や工房再現などで好評だった「400年有田の魅力展」は、2、3月の大阪・梅田阪急、福岡三越に続き、来年度も全国各地の百貨店で実施する。町内の子どものための企画として、夏休みに焼き物製作体験会を開く。実行委では、山口隆敏町長が「節目の年を目前に控え、陶器市など既存イベントの拡充を含め検討している。委員の意見を聞き、よりよい計画にしたい」とあいさつ。委員の中島宏・県陶芸協会会長らが「有田の熱気を世界に伝えてほしい」などと述べた。計画は3月までに再度実行委を開いて決定する。

*7-2:http://qbiz.jp/article/78003/1/
(西日本新聞 2016年1月10日) 有田焼 さらなる高みへ 創業400年 陶芸家ら決意
 有田焼創業400年の幕が開けた。産地の再興、海外の販路拡大を目指し、磁器発祥の地、佐賀県有田町の関係者はさらなる伝統の高みへと心を熱くしている。「今後100年、その先の未来に向け、有田の誇りを継承していきたい」。有田町の泉山磁石場で1日にあった記念イベントで、有田中3年の森龍一郎君は未来へのメッセージを力強く読み上げた。山口祥義知事は「子や孫にしっかりとした有田焼を引き継いでいきましょう」と祝辞。山口隆敏町長も「450年、500年とつないでいくため、この節目の年を生かしていく」と決意を述べた。イベントでは、重要無形文化財保持者(人間国宝)ら有田焼を代表する陶芸家たちも自作の灯籠を磁石場にささげ、思いを新たにした。灯籠に伝統文様のボタンの彫りを施した白磁の人間国宝、井上萬二さんは「400年は祭りではなく原点に返る年。先人たちが積み上げてきた技術を受け継ぎ、平成の伝統をつくっていく」。青磁の人間国宝、中島宏さんの灯籠は天に向かって伸びる竹を表現。「磁石場に立ち、あらためて先人の苦労がしのばれた。感謝し負けないように頑張らなければ」と表情を引き締めた。薄墨墨はじきの技法とプラチナ彩で鍋島文様のタチバナやザクロを描いた色絵磁器の人間国宝、十四代今泉今右衛門さんは「400年の重みを受け止め真摯(しんし)に仕事に向き合っていくことが先人への恩返しになる」と述べた。十五代酒井田柿右衛門さんは、17世紀の柿右衛門の文様と自身が取り組む団栗(どんぐり)文を表現。「柿右衛門の昔と今の融合を感じてほしい」と語った。400年前に泉山磁石場を見つけた李参平の子孫で、同町の陶芸家十四代金ケ江三兵衛さんは「有田焼の原点の地でこの日を迎えられた。ありがたく、素晴らしい」と感慨深げだった。

| まちづくりと地域振興::2014.4~2015.4 | 02:39 PM | comments (x) | trackback (x) |

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