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2015.5.2 日本は地震への対応に慣れているため、ここは援助すべきだ (2015.5.3追加あり)
    
     
          <その他は無料の画像集より>              2015.4.29朝日新聞

(1)ネパール大地震
 *1-1、*1-2、*2-3 に書かれているように、ネパールで起きたマグニチュード7・8の大地震は、発生から2日で1週間になり、死者は現在わかっているだけで6,363人となり、北東部シンドパルチョーク地区では約3,000人が行方不明だそうだ。

 また、*2-1、*2-2のように、地震の発生から5日たった30日、首都カトマンズ郊外の村サンクに、ようやく水や食料が届き始めたが、自治体の住民名簿が整備されていないため配給が進まず、食料品などの物資は役場で留め置かれた状態で、地方では、被害の実態がわからないまま孤立し、支援も届かない集落が点在しているそうだ。

 さらに、交通や通信事情の悪い山間部については、ネパール政府も被害状況が把握できておらず、救援活動用のヘリコプターが足りないため、ネパール内務省が、4月30日、国際社会にヘリの派遣や貸与を訴えているとのことである。

(2)ODAによる日本の援助
 ネパールは、2014年の名目GDPが188ヶ国中107位で196.4億 USドルであり、同じ年の日本の名目GDPは3位で46,163.4 億USドルだ。さらに、日本は、4年前の東日本大震災で災害時のヘリによる救出や食料配布に慣れており、最近は不要になった仮設住宅も増えている。

 そのため、速やかにオスプレイなどのヘリを出し、ODAで、大量にある備蓄米を配布したり、比較的手の空いている山陰や九州などの建設業者が出向いて瓦礫を取り除き、仮設住宅を建てればよいと思う。そのためには、被災地まで重機を持っていくか近くで調達する必要があるが、人は、本当に困っている時に助けてくれた人を忘れないものである。

(3)復興とまちづくり
 *2-4のように、ネパール大地震で殆どの家が全壊し、石や煉瓦や木材ががれきの山となって、人々が茫然としている状態を見てわかったことは、この地域は地震地帯であるにもかかわらず、建物が耐震設計になっていないことである。これも日本の得意分野であるため、耐震基準や建物の作り方については技術供与できる分野であり、日本の建設会社が復興やまちづくりに協力することもできるだろう。

 また、世界遺産も、次は耐震性を持たせ、世界が得意分野で協力しながら、次第に復元すればよい。ここは、原発事故がなかったので、復興を速やかに行えるのが慰めである。

*1-1:http://www.saga-s.co.jp/news/national/10201/182607
(佐賀新聞 2015年5月1日) ネパール地震、死者6千人超、3千人不明情報も
 【カトマンズ共同】ネパール内務省は1日、同国の大地震による死者は6204人になったと明らかにした。近隣国を含めた犠牲者数は6300人を超えた。1日付の地元紙ヒマラヤン・タイムズによると、北東部シンドパルチョーク地区では約3千人が行方不明となっている。犠牲者は、さらに増える恐れが出てきた。ロイター通信によると、内務省当局者は4月30日、被災した山村地域での救援活動に使用するヘリコプターが不足しているとして、国際社会にヘリの派遣や貸与を訴えた。同当局者によると、ネパールでは現在、インドから派遣された機体を含め、約20機のヘリが救援活動中。

*1-2:http://digital.asahi.com/articles/DA3S11734822.html?_requesturl=articles%2FDA3S11734822.html&iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11734822 
(朝日新聞 2015年5月2日) ネパール地震、犠牲者6300人超 きょう1週間
 ネパールで起きたマグニチュード(M)7・8の地震は、発生から2日で1週間になる。同国内では6254人が死亡、インドや中国など周辺国を加えると、死者は6363人になった。交通や通信事情が悪い山間部では、政府も被害の把握ができていない。震源に近く、孤立した中部の山あいの村に1日、記者が入った。

*2-1:http://digital.asahi.com/articles/ASH511634H4ZUHBI044.html
(朝日新聞 2015年5月1日) ネパール地震、死者6300人超 登録不備で配給に遅れ
ネパール内務省などによると、ネパール地震による同国内の死者は1日朝までに6198人が確認された。インドなど周辺国を合わせると、死者は全体で6307人になった。
■被災者に不満「政府は何もしてくれない」
 ネパールで4月25日に起きた地震で、同国内には今なお救援物資を待つ人たちがいる。発生から5日がたった30日、首都カトマンズ郊外の村サンクには、ようやく水や食料が届き始めた。しかし、自治体の住民名簿が整備されていないため配給が効率的に進まず、食料品などの物資は役場で留め置かれた状態だ。政府の不手際に、被災者の不満が高まっている。「水は届き始めたが、お米や油はもらえない」。30日、サンク中心部に住む主婦モティ・マヤさん(67)は目に涙をためて窮状を訴えた。地震後は近所の住民に食べ物を分けてもらい、空腹をしのいでいるという。全壊した自宅から15メートルほどの距離にある役場には食料品などが積んである。しかし、「名前が登録されていないため渡せない」と職員に言われた。政府は地域住民に平等に配給を進めようとしているが、そのための名簿が整備できていない。役場の入り口では、食料を求める人たちが職員と押し問答をしていた。サンクは伝統的なれんが造りの民家が密集する街道沿いの村で、「千軒の家」の別名を持つ。しかし、地震で住民60人がこれまでに死亡。地元の観光ガイドによると「9割以上の建物が被害を受けた」という。細い路地は倒壊した建物でことごとくふさがれていた。地震直後から行方がわかっていない住民もいる。住む家を失った人たちが身を寄せるのは、郊外に広がるトマト畑だ。ビニールハウスで雨をしのぎ、食べ物は民間ボランティアの配給を分け合う。半壊した家から取り出した毛布を地面に敷き、寝床にしている。「固定資産税も、農業の税も払ってきた。それなのに政府は何もしてくれない」。7世帯計70人と一つのビニールハウスに同居する農業マヤ・デビさん(67)は政府への怒りを隠さなかった。「私たちには戻るところがない。毎日あしたが怖い」

*2-2:http://digital.asahi.com/articles/ASH4Y5GW9H4YUHBI01J.html
(朝日新聞 2015年4月30日) 山間部に孤立した集落点在 ネパール地震、物資届かず
ネパールを襲った地震から4日たった29日、首都カトマンズでは一部の商店が開き、バスも走り始めた。だが、地方では、被害の実態がわからないまま孤立し、支援も届かない集落が依然として点在している。カトマンズ北方の山あいの村に記者が入った。鋭いカーブが折り重なり、急傾斜の山道が続く。至るところで地震による土砂崩れが発生し、木の根やおよそ2メートル大の岩が道の一部をふさいでいる。道幅はわずか3~5メートルほど。道路の右側は、切り立った崖だ。車はスピードを落とし、岩や土砂を避けながら慎重に進んだ。カトマンズ中心部を出発して1時間半後、シンドゥパルチョーク郡のニブ村と呼ばれる小さな集落が現れた。一帯では10軒以上の家屋が倒壊。石と粘土でできた壁が崩れ、そこら中にちらばったままだ。村人たちが、そのがれきを少しずつ、素手で片付けていた。「誰も助けに来ない。これからどうしたらいいのか」。自宅前の庭にしゃがみ込んでいた女性、ムイサニ・タマンさん(59)が、ため息をついた。地震で2棟の自宅は完全に倒壊。偶然にも一緒に暮らす親族11人全員が屋外にいたため、難を逃れた。それからは、庭にシートやトタンを屋根にしたテントを二つ張り、雨露をしのいでいる。最大の悩みは食料不足だ。次男のディーパクさん(30)によると、5月末までは、昨年に収穫して家に貯蔵しておいた米を食料に暮らすはずだった。その残り1カ月分の米が、すべてがれきの中に埋もれてしまった。被害が比較的小さかった近所の家から米を少し分けてもらい、何とか食いつないでいるが、互いに厳しい状況の中で限界に来ている。28日に地元警察が集落を訪れ、各家庭に4キロずつ米を配給したが、それ以外は支援が届いていない。「地震から、ずっと悪夢の中にいるようです。まだ信じられない」。ムイサニさんは、頭を抱えた。周辺の山岳地域には、こんな孤立集落が多数点在している。車では近づけない険しい山肌にも、崩れ落ちた家屋がたくさん見えた。ニブ村から車でさらに約1時間。ラットマテ村では、ほとんどの家屋が倒壊していた。数十人が土砂崩れや家屋の下敷きになって死亡したという。カトマンズ市内で暮らす大学生、ナレイン・ドラさん(20)は家族を心配し、地震翌日に丸1日かけて徒歩で実家に戻ってきた。ナレインさんによると、外国の救助隊がヘリコプターで負傷者の救出に来たが、食料や生活物資の配給は一度も来ていないという。ナレインさんの家も全壊した。家族ら13人はトタン屋根で作った粗末なテントの下で暮らす。停電で、夜は真っ暗になる。野生動物や寒さから身を守るため、テントの前で一晩中たき火をたいているという。育てている野菜を近隣の集落と物々交換しながらしのいでいるが、食料の盗難も発生し始め、事態は悪化する一方だ。「食料と住む場所が必要です。ぜひ記事で伝えてほしい」。ナレインさんは、強く訴えた。
     ◇
 ネパール警察当局は29日、地震の死者数を5027人と発表。周辺国を合わせると計5135人となった。日本の国際緊急援助隊医療チームの46人が同日、カトマンズに到着した。

*2-3:http://www.asahi.com/articles/ASH520DN7H51UHBI04C.html?iref=comtop_6_01 (朝日新聞 2015年5月2日) 「ヘリ足りない」 物資届かず自衛隊にも影響 ネパール
 2日で発生から1週間となり、死者が6千人を超えたネパールの地震で、山間部での被害の実態が次第に明らかになってきた。大きな揺れで道路に崩落などが起きたほか、もともと車で行かれない場所も多く、ヘリコプターの数の不足が救援活動を難しくしている。国際社会にヘリや航空機の提供を求める声が強まっている。震源地に近い北西部ゴルカ郡ポハラター村。土砂崩れで砂利道が埋まり、車では進むことができない。食糧などの運搬はすべて人力だ。被害状況を調べに来た国連の災害調査チームのブルノー・ブリアクさんは「被災した村があちこちに散らばっている。ヘリコプターを使わないと、物資を運べない場所も多い」と言う。ネパール政府の被害状況把握や救援活動は、山間部では遅れている。その理由は、ヘリなど交通手段が乏しいことにある。ネパール内務省のダカル報道官によると、救援救助活動に従事しているヘリコプターは、応援に来たインド軍機なども入れて20機。救助活動に加え、孤立地域への救援物資の投下作業を地震から4日後に開始したが、はかどっていない。ダカル氏は「ヘリが足りない。テントや食糧も不足している」と訴える。日本から医療援助のため派遣された自衛隊も、ヘリ不足など輸送力の問題で行動が制約される。自衛隊の医療援助隊は1日に本隊が到着し、総勢114人となった。今のところ、医療活動はカトマンズ周辺で行う予定だ。被害のひどい山間部では道路が寸断され、装備を運ぶにはヘリが必要になる。だが、ネパール軍などからヘリを借りるめどはたたず、空港の受け入れ能力の問題などで日本から持ち込むのも難しいという。自衛隊は輸送機に積み込めるタイプの多用途ヘリを所有し、2005年のパキスタン北部地震でも輸送機で現場に派遣された。だが、救援要員や物資を運ぶ各国の航空機が殺到するカトマンズ空港は滑走路が1本、駐機場も8機分しかない。常に多くの飛行機が上空で旋回を繰り返し、着陸の順番を待っている状態だ。輸送機を長時間止めてヘリを取り出し、その場で組み立て直す場所と時間を確保できないという。
     ◇
 ネパール警察当局は1日午後10時現在(日本時間2日午前1時15分)の死者数を6621人と発表した。インドなど周辺国と合わせて全体の死者は6730人となった。

*2-4:http://digital.asahi.com/articles/DA3S11734880.html
(朝日新聞 2015年5月2日) 震源近く、立ちすくむ村 8歳娘、目の前で失う ネパール地震
 ほとんどの家が全壊し、石や木材ががれきの山となって斜面に取り残されている。あちこちで、押しつぶされた家畜のヤギや牛が横たわり、ハエがたかっている。カトマンズから車で計8時間。震源に近い未舗装の山道の先は、土砂崩れで完全にふさがれていた。車を降り、林や段々畑の広がる急斜面を1時間ほど登ると、壊滅した集落があった。約200人が住むゴルカ郡ポハラター村。住民たちが、屋内に貯蔵していた米や穀類をがれきの隙間からかき出して集めていた。村人らによると、この村では家屋40戸のほぼすべてが倒壊し、12人が死亡した。ヒム・ラナマガーさん(37)、スニタ・ラナマガーさん(32)夫妻は、3棟あった自宅がすべて壊れ、次女ビピサさん(8)を失った。地震発生時、ヒムさんは仕事で他の村にいた。急いで戻ると、胸から下が近所の家の下敷きになった状態で、ビピサさんが倒れていた。住人たちと手作業でがれきを取り除いて助け出したが、手遅れだった。背中をけがした長女のビニタさん(14)は、妹を亡くしたショックでしゃべれなくなった。ときどき、自宅のあった場所で1人で泣いているという。ヒムさんは「食事も寝るのも、ビピサと一緒だった。ビピサに会いたい」と声を絞り出した。人々は、農業と牧畜で自給自足の生活をしてきた。ふもとの小さな発電所から電気も引いていた。だが、いまは重機を入れるスペースもなく、がれきは地震発生直後のまま。みなテント生活を送っている。4月27日から、ボランティアチームなどが、ふもとまで米などの食料を届けるようになった。ほぼ毎日、村の青年たちが背負って運んでいる。ビンマル・タパモガーさん(22)は「とても重いし大変だ。地震の前は清潔で豊かな暮らしだったのに。元通りにするには、50年ぐらいかかるんじゃないか」と話した。ゴルカ郡では約400人が死亡したとされる。現地で支援活動をしている国連児童基金(ユニセフ)のネパール事務所によると、震源地付近を含む山間部に近づくのは難しく、援助が十分に行き届いていない。ポハラター村のふもとまで被害状況を調べに来ていた国連の災害調査チームのブルノー・ブリアクさんは「今回の支援の難しさは、被害を受けた村があちこちに散らばっていることにある。ヘリコプターを使わないと、物資を運べない場所も多い」と話した。
■世界遺産の街「客消えた」
 カトマンズ近郊、バクタプル市の世界文化遺産「ダルバール広場」。ヒンドゥー教寺院の本殿は崩れ、土台しか残っていない。他の建物の多くも崩れている。「予約で埋まっていたのに地震で客が消えた」。近くの宿で働くサンジェイ・ナガさん(45)は嘆いた。カトマンズ首都圏にある世界遺産は7カ所。バクタプル、カトマンズ、パタンの3市では、15世紀以降の旧王宮や寺院群が集まる同名の「ダルバール広場」が、それぞれ世界遺産に指定されている。国連教育科学文化機関(ユネスコ)のネパール事務所によると、3カ所では寺院の5~8割が倒壊。マンハート所長は「復元には10年はかかる」と言う。同国観光省によると、世界遺産やヒマラヤの山々を目当てに2013年には80万人の外国人が訪れ、4億1300万ドル(約500億円)を消費した。観光業で100万人以上が働く。ゴータム観光局長は「観光資源が失われた。復活を目指すしかない」と話す。カトマンズ中心部、ふだんは外国人観光客が多いタメル地区では1日、通りに面した土産物店などは半分が営業を再開。稼働し始めたATMの前に市民らが長い列を作っていた。観光客の姿はほとんど見えない。公園にできたテント村では、4月30日を境に野営者が減った。市内で電気の供給が戻り、自宅に帰る人が増えた。テント生活を続けるシバ・プラサド・ポウデルさん(64)も「水も食料も足りている」と話した。ネパール山岳協会によると、雪崩が起きたエベレストでは、ベースキャンプから希望者全員が下山した。登山の継続を希望する登山者ら約50人が残っているとの情報もある。被害の全容は政府も把握できていない。内務省のダカル報道官は「行方不明者数も集計できていない」。復興には、50億~100億ドル(約6千億~1兆2千億円)が必要との試算や見通しが、米シンクタンクなどから出ている。最大でネパールの国内総生産(GDP)の半分に当たる規模で、国土の再建には相当の時間がかかりそうだ。


PS(2015.5.3追加):*3に書かれているように、「ネパールでは、議会が空転を続け、憲法制定も進んでおらず、政争や腐敗で機能不全」とは言っても、前の王制に戻った方がいいわけはないだろう。しかし、せっかく支援物資を持ってきてもうまく配布できずに追い返されるようでは困るため、徐々に調整ができてきているのはよいことだ。なお、自衛隊も災害救助のための出動時には、迷彩服ではなく赤・オレンジ・黄・緑・青などの鮮やかな色の制服を着た方がよいと思う。何故なら、鮮やかな色の服の方が目立つため探しやすく、迷彩服は人助けではなく戦闘目的にあった保護色の服だからだ。

   
2015.5.2朝日新聞              <その他は無料の画像集より>

*3:http://digital.asahi.com/articles/ASH525R8NH52UHBI015.html
(朝日新聞 2015年5月3日) 被災者に怒り、救助隊は現場で混乱 ネパール地震一週間
 2日で発生から1週間になったネパールの大地震。死者数は周辺国を合わせて6950人になった。多くの人が避難を余儀なくされるネパールでは、食料や水、テントなどの配布が進まず、人々はいらだちを募らせる。ネパール政府が十分に機能していないため、各国の救助隊も現場で混乱している。自衛隊の医療チームが仮設診療所で活動を始めたカトマンズ中心部ラトナ公園。ここで寝泊まりするプレム・タマングさん(39)は「あの診療所は日本がつくった。水と食べ物はインド軍。ネパール政府は何をしてくれたと言うんだ」と怒りをぶちまけた。公園には被災者ら2500人以上が寝泊まりする。一部にはテントが与えられたが、タマングさんは地震発生から1週間、公園の隅で過ごす。食料や水、テントなどの供給が進まない状況に市民らは怒りを募らせ、視察に訪れたコイララ首相が罵声を浴びせられる騒ぎも起きた。ラトナ公園でも数日前、訪れた首相に「出て行け」との声が上がった。首相は4月29日に、市内の文化遺産「ダルバール広場」で救助活動中の日本の国際緊急援助隊・救助チームを激励する予定だったが、その前に市民に罵声を浴びせられ、日本隊に会わないまま去った。ネパールでは2008年に王制を廃止し、新しい憲法を作るための制憲議会選挙が行われた。だが、各党派の対立などからボイコット合戦が続いて議会は空転を続け、憲法制定プロセスは進んでいない。国民生活の低迷を尻目に続く政争と腐敗、そして機能不全に、地震発生の前から国民の怒りは高まっていた。政府の混乱は、救助活動にも影を落とす。各国から到着する救助隊は政府と国連の調整のもとで活動することになっているが、十分に機能していないのだ。ダルバール広場では、市民らががれき撤去に汗を流す脇で、スウェーデン政府が派遣した救助チームの2人がきょろきょろしながら歩いていた。「救助できる場所を探しているが、なさそうだ。帰国するしかない」とケント・コックム隊員は疲れた様子で話した。総勢40人のスウェーデン隊は到着後、ネパール政府の要請で、トラックに食料やテント、医薬品を積んで震源地に近いゴルカ郡に向かった。だが、到着するとネパール軍に「軍がやるから不要」と追い返されたという。日本の救助チームも苦労している。到着翌日の4月29日、カトマンズ近郊バクタプルで地元警察に案内された場所に着くと、すでに中国や韓国のチームが活動していた。1日に別の地域で活動場所を見つけたが、2日は担当区域外のはずのメキシコ隊と共同作業となった。メキシコ隊のマカレナ・オラサバル調整官は「ネパール政府が調整できていない」とこぼした。9歳の息子が生き埋めになっているというサパナ・シュレシュタさん(33)は「ポルトガル、インド、中国、トルコの救助隊が来て去って行った。今度は日本とメキシコ。とにかく助けてほしい」と話した。バレリー・エイモス人道問題担当国連事務次長兼緊急援助調整官は1日、カトマンズでの会見で「調整は徐々に効果的になっている」と話した。国連は、各国の救助チームにがれき撤去や建物の安全評価を要請する方針だ。

| まちづくりと地域振興::2014.4~2015.4 | 03:00 PM | comments (x) | trackback (x) |

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