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2019.3.12 日本は人権を大切にしない国である ← 災害後は速やかな復興と災害前以上の生活水準にすることが必要なのに、時間ばかりかけて「心のケア(心の問題)」としていることから (2019年3月14、15、16、18、25日に追加あり)
 

(図の説明:左図のように、東日本大震災の津波遡上高は地形が狭くなるところで高くなるので、地域によって異なる。中央は宮城県女川町、右は岩手県陸前高田市を襲った津波の様子だ)

 

(図の説明:左の2つは、東日本大震災被災地の地形と被災状況、右の2つは、南三陸町と宮古市の津波後の状況である)

(1)東日本大震災と原発事故から8年後の復興状況
 2011年3月11日2時46分、私が埼玉県の自宅マンション倉庫にあるゴミ置き場でゴミの分別をしていたところ、激しい揺れが来てそれが長く続いたため、倉庫にいては危ないと思って駐車場に出て座り込み、このような激しい地震の中で10階建てのマンション全体がどう揺れるかを、しっかり見ることとなった。その結果、当たり前だが、中央部はあまり揺れず端が激しく揺れて、その揺れは上階に行くほど著しかった。

 揺れが収まってからマンションの自室に戻ってTVをつけると、津波の恐れはあるが6m程度だと言っていた。これが、津波を過小評価して避難を遅らせた原因だろう。くぎ付けになってTVを見ていると、津波は15時過ぎから到達し始め、地形によって遡上高が変わり、居住地の最大遡上高は宮古市の40.5mというすごいものだったことを、決して忘れてはならない(https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20170311-00068495/参照)。

 復興庁は、このブログで私が提案してできた省庁だが、①1カ所で総合的復興計画を立てて速やかに復興を進めること ②復興にかかった費用をすべて集計すること がその目的だった。そのうち、①については、*1-1-1・*1-1-2のように、東日本大震災から8年経ってもまだ復興途上で避難生活を強いられ、仮設住宅で暮らす人が現在でも岩手県2,156人、宮城県453人、福島県809人もおり、他県も含めると全体で5万2千人に上るというので、決して速やかとは言えない。原発事故で戻れない人には、帰還を無理強いするのではなく、1~2年以内に「できないことは、できない」と明らかにして移住してもらうべきだったのだ。また、②については、本来は毎年集計して費用対効果を開示すべきだったが、今からでもやってもらたい。

 もし復興庁を作らず各省庁が別々に関与していれば、復興がもっと速かったとは思わないが、仮設住宅で我慢させるのはせいぜい1~3年にしなければ、健康を害したり気力を失ったりするのは当然だ。そして、これは誰かが話を聞いたり、心のケアをしたりすればすむ心の問題ではなく、解決すべき実在する問題なのである。

 さらに、「福島県の農水産物の風評被害・・」などと書かれているが、風評被害と強弁して無理に食べさせようとしたり、除染土が置きっぱなしになっていたりする限り、安全を第一に考える人は福島県に寄り付けないだろう。つまり、災害後の誤った意思決定の一つ一つが、すべて人災となって加わっているのである。

 なお、*1-1-2には、「津波被害を受けた3県の沿岸部を中心に人口減少が加速し、地域コミュニティーの再生どころか、存続の危機を迎えているところも少なくない」と書かれているが、津波被害を受けた同じ場所に前と同じ街を造って地域コミュニティーを復活すればよいわけではなく、安全性を考えて産業を含めた再配置を行うのが当たり前である。

 また、*1-1-3に、「i)被災者の生活再建にめどが立ったわけではない」「ii)原発事故に見舞われた福島県で、政府は一通りの除染で帰還を促すが殆どの避難者が被曝の不安、医療・介護、商業施設再開見通しのないことで帰れない」「iii) 福島県沿岸部でイノベーション・コースト構想があり、帰還者でも避難者でもない新たに来る人たちを対象に年700億〜900億円が投じられている」などが書かれているが、どの地域であっても働く場所や収入がなければやりがいを持って生きられないため、いつまでも「可哀想の論理」で被災者を支援するだけでは、被災者も救われないし、国の財政も破綻するわけである。

 なお、*1-1-4に、「復興住宅で高齢者の孤独死が急増した」と書かれているが、これは災害公営住宅(復興住宅)に、誰でも来やすいレストランやショートステイ・診療所・訪問介護などを付設する方が、ボランティアが時々訪問するより効果的だろう。そして、現在50~70代くらいの男性が「復興期弱者」になっているのは、いつまでも生活の目途が立たず、仕事がないから(つまり、復興が遅すぎるから)ではないかと考える。

(2)原発事故のあった福島の復興状況
 *1-2-2のように、東日本大震災から8年経っても避難者が5万人超もいるのは、事故を起こしたフクイチの立地自治体付近が、避難指示区域だったり、帰還困難区域だったりするという理由も大きい。

 そのフクイチは、8年経ってもまだ原子炉内の燃料デブリが取りだされていないばかりか、取り出す目途もたっておらず、100万トンを超える汚染水処理もまた見通しが立たない。*1-2-1によれば、原発事故対応費は総額81~35兆円になるとの試算を「日本経済研究センター」がまとめており、これは経産省の約22兆円という試算を大きく上回っているが、経産省との違いは、汚染水の浄化処理費用を約40兆円と大きく見積もり、除染で発生する土壌などの最終処分費用を算入したことなどだそうだ。

 そもそも、「水で冷やしさえすればよい」というのは平時の発想で甘すぎると、私は事故当時から思っており、ロシアのように最初から石棺方式を採用すれば汚染水も出なかった筈だが、本当に「復興やふるさとへの帰還をあきらめることに繋がる」という声だけで40兆円の国民負担をさせることになったとすれば誤った意思決定も甚だしい。むしろ、空いた農地も多い中、移住すべき人たちにはその費用を出した方がずっと賢く、この誤った意思決定による損失は、本当に全国民が負担すべきものなのか疑問に思う。

 そして、このように国民負担を増やすが生産性は増さない変な意思決定を続けている人たちの予測は全く当てにならないため、*1-2-3のとおり、史上最悪の原発事故を起こした日本は、原発をベースロード電源などにするのではなく、早々にゼロにすべきである。これは、単なる不安ではなく、正当なリスク管理だ。

(3)戦中・戦後の日本
 女学校の前半まで満州で育ち、戦争中に佐賀市に引き上げてきて女学校(佐高女)の後半は飛行機の尾翼を作らされていた私の母が、「長崎に原爆が落ちた時は、佐賀からもキノコ雲が見えて新型爆弾だと言われていた」「飛行機の尾翼を作っていた工場に低空飛行の米軍戦闘機から機銃掃射を受け、逃げ回りながら見上げたら米軍機のパイロットが笑いながら撃っていた」と語っていた。現在は、パイロットも乗らないミサイルのボタンを押すだけで攻撃できるため、攻撃して人を殺すことに対する抵抗はもっと小さい(攻撃:ローレンツ《行動学者》著 参照)。

 そして、日本では、太平洋戦争中に、*2-1・*2-2のように、無差別爆撃が行われ、1945年3月10日未明の東京大空襲では、約300機のB29が33万発の焼夷弾を投下して10万人近くが犠牲になったと言われるが、既に70年以上も前のことなので、身内からこういう体験談を聞ける人は私たちの世代が最後なのかもしれない。そのため、早くそれぞれの学校で同窓会HPを立ち上げ、戦中・戦後に生徒だった人のエッセイを掲載すると、生きた資料になると思う。

 東日本大震災の後、その母が「私たちは、焼け出されても誰も何もしてくれないから自分たちで立ち上がったのに、ふるさとを失ったって贅沢ね。大災害の後、あれだけやってもらえばいいでしょう」と言っていた。私も「災害で失ったものは仕方がないので、(復興に国の力は借りても)故郷やコミュニティーは新しく作るしかないじゃない」と思う次第だ。

 なお、第二次世界大戦では、*2-3のように、国策として満州開拓に出ていた人たちも多くが棄民され、日本に帰りついた人はむしろ幸運な方だったそうだ。私の祖母は、叔母を妊娠していた昭和7年(1932年)に上海事変が起こり、鉄砲の玉が家の中に飛び込んでこないように窓に布団をぶら下げていたという壮絶な経験をしており、(それと比べる必要はないが)生きていくのに心配のない現在の日本の礎を作った人々を、決して疎かにしてはならないと思っている。

・・参考資料・・
<東日本大震災と原発事故から8年後の復興進捗状況>
*1-1-1:https://www.kahoku.co.jp/editorial/20190311_01.html (河北新報 2019年3月11日) 東日本大震災8年/歳月を経ても復興は途上だ
 突如としてあの日、私たちはすさまじい揺れに突き動かされた。異常なほど長くそれは続き、やがて、真っ黒な巨大津波が沿岸を覆い尽くすように襲った。濁流が家々をきしませ、押し流し、瞬く間にがれきに変えていく。陸では打ち上げられた大小の船が転覆し、数え切れない車が横転し、自販機や家電品が散らばっている。ささくれ立った無数の家屋の柱、引きちぎられた防潮林の木々。見渡す限り、どれもが汚泥にまみれていた。破壊の限りを尽くした津波が引いた直後の惨憺(さんたん)たる光景-。かけがえのない生命を救い得なかった悔恨、あるいは不条理な自然災害への痛憤。家族や友人を亡くした人たちはもろもろの思いにさいなまれながら、感情を覆い隠すようにして生きてきた。そうした日々を重ね、被災地は東日本大震災から8年を迎える。ひと頃に比べると先細りした支援の中で、孤立感に耐えながらプレハブの応急仮設住宅で暮らす人は、今でも岩手県が2156人、宮城県453人、福島県809人。借り上げ住宅など、みなし仮設住宅に住む人を加えると、3県で1万人を超える。応急仮設住宅で生活しなければならない被災者がこれほど多いという事実だけで、震災がまだ進行中なのは明らかである。震災からの復興は文字通り道半ばである。8年という歳月を数えてなお、復興は途上である。次の数字も忘れてはならないだろう。他県への避難者数は47都道府県に広がり、約5万2000人に迫る。最多は福島県から他県への避難者で3万2631人、さらに福島では、県内避難者が9322人。避難先不明者も含め、福島は計4万人以上が震災時の居住地を離れたままだ。それを余儀なくさせている東京電力福島第1原発の廃炉作業は、最難関とされる溶融核燃料(デブリ)の取り出しにようやく一歩を踏み出したばかり。廃炉完了までに要する時間はどれほどなのか、予測はつかない。震災から8年の歳月を経るこれが被災地の惨たる現状である。被災3県、特に福島の農水産物の風評被害は依然として残る。かつて年間70万人の子どもたちが修学旅行などで宿泊した福島は、震災で激減し、徐々に回復してはいるが、まだ7割にすぎない。冒頭に書いたような震災直後の風景は、じかに体験した人々にとっては、忘れようにも忘れられない。あの被災体験は生々しく記憶に突き刺さったまま、心に深く負った痛みとして残り続ける。この震災は言語に絶する被害を受けた災厄であり、いずれ自力で歩み続けなければならないとしても、まだ被災地は病んだ状態にある。時の経過とともに各種の支援が途絶え、厳しい現実が忘れられるような事態だけは、どうしても避けなければならない。

*1-1-2:https://kumanichi.com/column/syasetsu/898828/ (熊本日日新聞 2019年3月11日) 東日本大震災8年 地域再生はまだ道半ばだ
 東北地方を中心に死者1万5897人、行方不明者2533人、関連死3701人という甚大な被害を出した東日本大震災はきょう、発生から8年を迎えた。国が想定している復興期間の終了が2年後に迫る中、インフラの整備などは進んだが、被災地の人口減少は止まらず、最大の課題である地域コミュニティーの再生はまだ道半ばだ。津波や東京電力福島第1原発の事故により避難生活を余儀なくされている人は、ピーク時の約47万人から減ったもののなお約5万2千人に上る。被害が大きかった岩手、宮城、福島3県での、プレハブ仮設住宅への入居世帯も1573戸を数える。一方で、災害公営住宅は約3万戸の計画戸数のうち95%以上が完成した。道路、港湾、鉄道といった交通インフラの復旧もほぼ完了。農地の92%、水産加工施設の96%で、営農・業務の再開が可能となった。
●加速する人口減少
 しかし、3県では津波被害を受けた沿岸部を中心に人口減少が加速し、地域コミュニティーの再生どころか、存続の危機を迎えているところも少なくない。3県のまとめなどによると、42市町村のうち25市町村で震災前から10%以上人口が減少。仙台市周辺などの一部を除き高齢化率も30%超となっている。人口減少は学校、病院など住民の生活基盤にも影響を及ぼし、今後の復興の行方を左右する大きな課題だ。産業面では、3県の製造品出荷額はおおむね震災前の水準まで回復した。しかし、グループ補助金を受けて事業再開した企業を対象に、東北経済産業局が行ったアンケート(2018年6月)によると、売り上げが震災直前の水準以上にまで回復していると回答したのは46・4%にすぎない。人口減少は地元での売り上げや人手確保の面でも影を落としている。
●福島はさらに深刻
 原発事故に見舞われた福島県の状況はさらに深刻だ。県全体で人口は震災前から1割近く減少。避難者数は約4万2千人と全体の約8割を占める。農地の復旧もまだ67%にとどまる。福島第1原発から北西方面に広がる帰還困難区域では、今も立ち入りが原則禁止のまま。このうち同区域面積の約8%の地区を再び人が住めるようにする「特定復興再生拠点区域」(復興拠点)として整備しているが、復興拠点の避難解除は早くても22年春。古里に戻れる日は遠い。さらに、原発に近い双葉、浪江、富岡3町では、40代以下の住民の半数以上が帰還しない意向を示していることが、昨年の復興庁などの調査で判明した。避難生活が長引き、原発事故の収束も見通せず、若い世代が帰還に見切りをつけた状況が読み取れる。政府は8日、復興期間が終了する21年度以降も復興庁の後継組織を置くことを盛り込んだ復興基本方針の見直しを閣議決定した。残り2年の復興期間内で、津波被災地の「復興の総仕上げ」に取り組みながら、21年度以降に必要な支援事業についても詳細な検討を進めるという。原発事故の対応も中長期的に国が責任を持つとした。
●意見踏まえ方針を
 地域再生がなお見通せない現状からいって、後継組織設置は当然の判断だろう。共同通信が2月に実施した被災3県の市町村長アンケートでも9割が後継組織が必要と答え、中でも人口減少対策を求める声が多かった。期限付きの増税などで賄っている財源確保策が課題となるが、被災地の意見を十分に踏まえた上で、後継組織の在り方など復興基本方針の見直しを急ぎ、詳細を示してもらいたい。同時に10年間で総額約32兆円を費やす復興関連事業効果の検証も求めておきたい。

*1-1-3:https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190312/KT190311ETI090010000.php (信濃毎日新聞 2019年3月12日) 復興基本方針 形よりも大切なことが
 形にとらわれて国が先走る構造こそ変えなくてはならない。安倍晋三政権が、東日本大震災被災地の復興基本方針を改めた。2020年度で廃止となる復興庁の後継組織の設置を明記。21年度からは、被災者の心のケアといったソフト事業を中心に展開するという。震災からの8年で防潮堤や災害公営住宅の整備は進んだものの、被災者の生活再建にめどが立ったわけではない。国は当事者の声をしっかりくみ取り、事業の中身を固めるべきだ。首相直属の復興庁の後継組織は形態が定まっていない。内閣府に移管する案、金融庁や消費者庁のような外局とする案、「防災省」への改編を求める声が政府・与党内で上がっている。検討が遅れていたのに方針に盛ったのは、統一地方選や参院選を意識してのことだろう。政府は11〜15年度を「集中復興期間」、16〜20年度を「復興・創生期間」とし、10年間で32兆円の予算を確保した。道路や鉄道、住宅、堤防などの復興工事はほぼ終える見通しとなっている。半面、なお5万2千人が避難生活を強いられている。この4月以降もプレハブの仮設住宅に残る被災者がいる。賠償も住宅支援も仮設の提供さえも打ち切られ、生活保護を受けざるを得ない人たちも増えている。原発事故に見舞われた福島県の状況は特に深刻だ。政府は一通りの除染で帰還を促すものの、ほとんどの避難者が「帰れない」。被ばくの不安に加え、医療や介護、商業施設に再開の見通しのないことが妨げになっている。心のケアは大切だけれど、未解決の問題は山積している。それなのに基本方針は、21年度からの財源に言及さえしていない。被災地の懸念をよそに、国は一方的な「復興策」を続ける。象徴的なのが、福島県沿岸部での「イノベーション・コースト構想」だろう。ロボットや自然エネルギーの開発、廃炉研究の拠点化を図っている。帰還者でも避難者でもない、新たに来る人たちを対象にした構想に年700億〜900億円が投じられている。人口が流出し、高齢化が速まっている被災自治体の多くが、合併や広域連携の強化を模索し始めている。国がなすべきは、多様な状況に置かれた被災者個々を支援しながら、地域の立て直しに取り組む自治体の下支えだ。復興のあり方を決めるのは地元であることを忘れてはならない。

*1-1-4:https://digital.asahi.com/articles/DA3S13929196.html (朝日新聞 2019年3月12日) 復興住宅、孤独死が急増 昨年68人、仮設の最多年の倍以上 東日本大震災
 東日本大震災で被災した岩手と宮城両県で、災害公営住宅(復興住宅)での孤独死が仮設住宅と比べて大幅に増えている。2018年は前年の47人から68人となり、仮設住宅での孤独死が最多だった13年(29人)の倍以上に。復興住宅は被災地の住宅政策のゴールとされてきたが、新たな課題に直面している。朝日新聞が、復興住宅の独居世帯でみとられず亡くなった人数を集計していた両県を取材し、分析した。復興住宅は年度内にほぼ完成予定で、孤独死対策の強化が求められそうだ。復興住宅(計画戸数2万1677戸)での孤独死(岩手は自殺を除く)の数は13~18年の6年間で、宮城120人、岩手34人の計154人。16年19人、17年47人、18年68人と急速に増えている。仮設住宅の孤独死は11~18年の8年間で、宮城109人、岩手46人の計155人。仮設入居戸数が3万940戸と多かった13年は29人で、18年(1385戸)は6人だった。孤独死は全国的に懸念されている。例えば宮城県内全体の18年の孤独死数は982人で、前年比で1割増だった。ただ県内の復興住宅では18年に50人で前年と比べ、2割増えている。また男女別でみると、岩手、宮城両県では昨年までの6年で男性の孤独死が113人と女性の41人の3倍近い。特に50代以上の男性が全体の7割。一部の専門家はこうした層を「復興期弱者」と呼び、支援の必要性を訴えている。

*1-2-1:https://digital.asahi.com/articles/DA3S13926965.html (朝日新聞 2019年3月10日) 原発事故の費用「最大81兆円」 経産省公表は22兆円 民間シンクタンク試算
 東京電力福島第一原発事故の対応費用が総額81兆~35兆円になるとの試算を民間シンクタンク「日本経済研究センター」(東京都千代田区)がまとめた。経済産業省が2016年に公表した試算の約22兆円を大きく上回った。81兆円の内訳は、廃炉・汚染水処理で51兆円(経産省試算は8兆円)、賠償で10兆円(同8兆円)、除染で20兆円(同6兆円)。経産省試算との大きな違いは、汚染水の浄化処理費用を約40兆円と大きく見積もったことや、除染で発生する土壌などの最終処分費用を算入したことなど。また、この汚染水を、水で薄めたうえで海洋放出する場合は、廃炉・汚染水処理の費用が11兆円になり、総額も41兆円になるとした。これに加えて事故で溶け落ちた核燃料(デブリ)を取り出さずにコンクリートで封じ込める、いわゆる「石棺」方式を採用した場合は、廃炉・汚染水の費用が4・3兆円になり、総額も35兆円になるとした。ただ、「石棺」方式は、かつて「復興やふるさとへの帰還をあきらめることにつながる」などと問題になったことがある。同センターは2年前、総額70兆~50兆円に膨らむとの試算を出したが、その後の汚染水処理や除染などの状況を踏まえ、再試算した。試算を示したリポートはこの費用の増加を踏まえ、「中長期のエネルギー計画の中で原発の存否について早急に議論、対応を決めるときではないか」と指摘した。

*1-2-2:https://digital.asahi.com/articles/DA3S13928097.html (朝日新聞 2019年3月11日) 東日本大震災8年 避難なお5万人超、原発廃炉難題
 死者、行方不明者、関連死を含め、2万2131人が犠牲になった東日本大震災から11日で8年になる。今も約3100人がプレハブ仮設住宅で過ごし、約5万2千人が避難生活を続ける。東京電力福島第一原発事故が起きた福島県では今春、原発立地自治体の避難指示が一部の地域で初めて解除される。復興庁によると、新たな宅地を造る「高台移転」は93%、災害公営住宅は98%が完成した。住宅再建が進み、最大47万人いた避難者は5万2千人まで減った。ただ津波被害が甚大だった地域は遅れており、今も仮設住宅が残る。震災前から進んでいた人口減も歯止めがかからず、岩手、宮城、福島3県の人口は8年で計30万人減少した。福島県ではこれまで、10市町村で避難指示が解除され、原発が立地する大熊町の一部で4月にも解除される見通し。住民の帰還や定住を促す施策が進められることになる。原発の廃炉作業は、100万トンを超える汚染水や原子炉内の燃料デブリ処理など、難しい工程が控える。東日本大震災の復興期間は10年と定められ、復興庁は21年3月末に廃止されるが、原子力災害への対応や産業の再生といった課題が残る。政府は8日、復興庁の後も新たな組織を設置する方針を示した。平成の30年余、列島は阪神・淡路大震災、東日本大震災という峻烈(しゅんれつ)な災害に見舞われた。次世代に向け、教訓をいかす取り組みが求められている。

*1-2-3:https://www.nishinippon.co.jp/nnp/syasetu/article/493257/ (西日本新聞 2019年3月11日) 原子力政策 国民的議論から逃げるな
 東日本大震災の発生から8年の節目を迎えた。避難者はなお5万人を超える中、東京電力福島第1原発事故の後始末が被災地復興の足かせとなっている。史上最悪レベルとされる原発事故の反省と教訓は、国の原子力政策に十分に生かされているのか。国民の間では、原発を減らして将来的にはゼロを目指すべきだとの意見が多い。なし崩しの「原発回帰」は許されない。安倍晋三政権は、原子力規制委員会が新規制基準に適合したと判断した原発は再稼働させる方針を堅持している。原発への不安がぬぐえない中で、これまでに九州電力川内原発(鹿児島県薩摩川内市)1、2号機、玄海原発(佐賀県玄海町)3、4号機など9基が再稼働した。新規制基準は、「安全神話」に陥り過酷事故を防げなかった反省から、地震や津波、テロなどに備え安全対策の強化を求めている。九電の場合、再稼働した原発4基に投じる安全対策費は九千数百億円に達する見通しだ。「想定外」の事故を再び起こさないための費用が膨らむ。
●「玉虫色」の基本計画
 政府は既存原発の活用には積極的なのに、原子力政策を正面から語りたがらない。昨年7月に閣議決定したエネルギー基本計画も、原発については「玉虫色」の取り扱いとなった。同計画はエネルギー政策の基本的な方向性を示している。風力や太陽光など再生可能エネルギーの主力電源化を打ち出した。原発については「可能な限り原発依存度を低減する」としつつも、安定性や地球温暖化対策の視点から「重要なベースロード電源」と位置付けた。2030年度の電源構成は再生エネ22~24%に対し、原発は20~22%とした。この実現には30基程度の再稼働が必要とされる。運転期間が原則40年と定められた原発を延命して再稼働させなければ達成できない。ベースロード電源として活用するなら新増設が必要なのに、政府は中長期的な議論を避けてきた。新増設問題が選挙の争点になるのを嫌って課題を先送りしているのなら、この国の将来に責任ある姿勢とは言い難い。原発について政府が幅広く国民の声を聴いたことがある。原発事故でエネルギー政策の仕切り直しを迫られた当時の民主党政権は、12年に討論型世論調査や意見聴取会を実施した。30年の原発比率について0%、15%、20~25%の3案を示し意見を求めたところ、0%支持が最多だった。これを受けて政府は「2030年代に原発稼働ゼロを可能とする」とする、革新的エネルギー・環境戦略を打ち出した。安全確認を得た原発は重要電源として活用しつつ、新増設は認めないとの原則を明示して、「脱原発」にかじを切った。それを見直し「脱原発依存」に転換したのが、その年の12月に誕生した安倍政権だ。以来、「可能な限り低減する」との曖昧な態度を貫いている。官民一体で進めた原発輸出も行き詰まっている。安全対策費がかさんだこともあり、ベトナムや英国への輸出計画が頓挫した。しかし、政府は原発技術輸出の旗を振り続けている。国内と海外で態度を使い分けるようでは、国民の信頼は得られない。
●経済界もメッセージ
 原発について幅広い議論を求める声は、経済界からも上がっている。経団連の中西宏明会長(日立製作所会長)は1月の記者会見で、エネルギー全体に対する国民的議論が必要との認識を示した。なかなか再稼働が進まない現状への危機感が背景にあるが、原発の将来像を語らない政府へのメッセージとも受け取れる。産業界には、エネルギー安全保障や地球温暖化対策の観点から原発活用を求める声もある。確かに原発は二酸化炭素(CO2)は出さないが、廃炉や使用済み核燃料の再処理で放射能を帯びた核のごみが出る。危険物は地下に埋めて隔離しなければならないが、そうした処分場所の選定は手付かずだ。安全対策費や廃炉費用を考えれば、原発は低コストとの説明には疑問が生じている。私たちは、再生エネの開発と導入をもっと積極的に進め、「脱原発」への道筋を具体的に描くべきではないかと主張してきた。ここで改めて、原発事故で古里を奪われた人たちのことを心に刻み、必要十分な判断材料を示した上で国民的議論を始めるよう、政府に求めたい。

<戦後復興期の日本>
*2-1:https://digital.asahi.com/articles/ASM2W7292M2WUEHF00S.html (朝日新聞 2019年3月8日) 「負の連鎖」エスカレートした無差別爆撃 空襲とは何か
太平洋戦争末期、日本全土が標的となり、大規模な無差別爆撃が繰り返された。空襲による民間人の死者は少なくとも40万人以上、米軍が本土に投下した爆弾は約16万トンとされる。
●じゅうたん爆撃、東京大空襲を皮切りに
 広島、長崎と並ぶ大きな被害となったのが、1945(昭和20)年3月10日未明の東京大空襲だ。約300機のB29爆撃機が33万発の焼夷(しょうい)弾を投下。人口密集地帯だった東部の下町は火の海となり、10万人近くが犠牲になった。被害家屋は約27万戸、推計100万人が焼け出されるなどした。編隊を組んだB29が低空から隙間なく焼夷弾を落として街全体を焼き払う「じゅうたん爆撃」の始まりだった。3月12日には名古屋、13日には大阪、17日は神戸と、大都市が軒並み空襲を受けて壊滅状態に。次第に地方都市も標的となり、空襲は全土へと広がっていった。
●真珠湾攻撃から4カ月、初の本土空襲
 米軍による初めての日本本土空襲は、日米が開戦した真珠湾攻撃からわずか4カ月後の1942年4月18日にあった「ドーリットル空襲」だ。空母から飛び立ったB25爆撃機16機が東京、横須賀、川崎、名古屋、神戸などを襲った。その後、米軍は「超空の要塞(ようさい)」と呼ばれた、当時としては最大級の爆撃機B29を完成させ、1944年に実戦投入。6月16日、中国・成都の基地を飛び立ったB29が初めて日本本土を爆撃した。北九州の八幡製鉄所を狙って高高度から爆弾を落とし、300人以上が犠牲になった。米軍は7月、マリアナ諸島のサイパン島を日本から奪い、周辺の各島に飛行場の建設を進めた。B29の航続距離は6千キロ。成都からだと九州北部までが限界だったが、東京から約2400キロのサイパンを拠点にすれば、日本全域を攻撃目標にできた。11月から、本土空襲が本格化していった。
●精密爆撃から無差別爆撃へ
 当初の空襲は、軍需工場や港などの軍事拠点を狙った「精密爆撃」。昼間に、高射砲を避けて1万メートルの高高度から爆弾を落としたが、風で流されるなどして攻撃目標を外れることが多く、目立った戦果は挙げられなかった。45年1月、欧州戦線でドイツの都市への爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将がマリアナ諸島を基地とする第21爆撃機軍団の司令官になる。早期終戦を目的に、日本の厭戦(えんせん)気分を高めるため都市への焼夷弾攻撃を求める軍上層部の意向を受けて着々と準備を進めていった。そして、3月10日の東京大空襲をきっかけに、民間人を巻き込む「無差別爆撃」が繰り返されるようになった。硫黄島や沖縄の占領後は戦闘機による銃爆撃も始まり、空襲は、北海道を含む全土が対象になっていった。このうち、広島と長崎の原爆を除く通常爆弾や焼夷弾、銃撃による空襲の死者は20万人を超えるという。ただ、正確な数字を把握している自治体は少なく、国による実態調査も不十分なため、全容はいまだ明らかになっていない。
●日本の対中戦術「米が進化させた」
 軍事評論家の前田哲男さん(80)は6歳の頃、現在の北九州市戸畑区に住み、空襲を体験した。夜に警戒警報が鳴り、家族と庭に掘った防空壕(ごう)に飛び込んだ。外を見ると、八幡製鉄所が狙われているのだろうか、探照灯の光が夜空を切り裂き、高射砲の音が聞こえた。「B29だ」。防空壕の湿った土の臭いとともに記憶に残る。長崎の民放記者を経て、核問題への関心を深めた。フリーとなり、マーシャル諸島の核実験場を取材。その後、著した「戦略爆撃の思想」では、空からの無差別大量殺戮(さつりく)という視点にこだわった。スペイン内戦に介入したナチス・ドイツによる1937年のゲルニカ爆撃、そして38年から日本軍が始めた中国・国民党政府の臨時首都・重慶を狙った爆撃を、東京大空襲につながる都市への無差別爆撃の先例と位置づけた。特に、重慶爆撃は43年まで続き、200回以上の空襲で約1万2千人が犠牲になったとされる。「都市そのものを爆撃対象とみなし、戦闘員と非戦闘員の境界を取り払った戦略爆撃の思想を確固たるものにしたのが日本軍で、その戦術を進化させたのが米軍だった」。ボタン一つで爆弾を落とせる空からの攻撃は、肉体と肉体のぶつかり合いを伴わない分、人を殺したという実感がわきにくい。爆弾を落とされた側への想像力の欠如が、行為をエスカレートさせたとみる。
●ドローン爆撃、戦争はより無機質に
 焼夷弾によるじゅうたん爆撃は、やがて原子力爆弾の投下へとつながる。そして今、ドローン(無人機)の登場によって兵士は画面越しに爆弾を落とすようになり、戦争はより無機質なものへと変容した。無差別爆撃の負の連鎖は、戦後70年余を経ても止まらずにいる。
【キーワード】「超空の要塞」B29爆撃機
 太平洋戦争末期、日本上空に飛来し、多くの焼夷(しょうい)弾や爆弾を投下した米軍の大型戦略爆撃機。全長約30メートル、幅約43メートルあり、エンジン4基を備え、「超空の要塞(ようさい)」と呼ばれた。高度1万メートル以上を飛行でき、航続距離は6000キロ以上で、最大約10トンの爆弾を搭載。広島に原爆を落としたエノラ・ゲイ、長崎に原爆投下したボックス・カーも同じB29だった。

*2-2:https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201903/CK2019031102000119.html (東京新聞 2019年3月11日) 東京大空襲74年 命の尊さ語り継ぐ
 一九四五年三月の東京大空襲から七十四年となった十日、犠牲者の遺骨が納められている東京都墨田区の都慰霊堂で法要が営まれた。秋篠宮ご夫妻も参列され、遺族ら約六百人が犠牲者の冥福と平和を祈った。遺族らは慰霊堂の前で献花し、手を合わせて犠牲者を追悼。参列した練馬区の鈴木美津恵さん(77)は、空襲で造船所に勤めていた父親を亡くした。当時の記憶はほとんどないが「空襲後、吾妻橋も隅田川も死体の山だったと聞く。母が父を捜したが結局見つからなかった」と振り返り、「父の顔も全然覚えていないのに、今でも突然帰ってくる夢を見る。もう七十年以上も前のことなのにね」と言葉を詰まらせた。小池百合子知事は「戦後生まれの世代が大半を占めるようになった今、私たちには戦争の悲惨さを風化させず、命の尊さや平和の大切さを語り継いでいく使命がある」と誓った。東京大空襲は太平洋戦争末期の四五年三月十日未明、米軍のB29爆撃機三百機以上が現在の東京都江東区、台東区、墨田区などに大量の焼夷(しょうい)弾を無差別に投下。十万人以上が犠牲になったとされる。

*2-3:https://digital.asahi.com/articles/DA3S13844038.html (朝日新聞社説 2019年1月11日) 引き揚げの苦悩は消えぬ 中野晃
 昭和の戦争は敗戦で終わったわけではない。戦争の取材を続けるなか、植民地朝鮮や旧満州(中国東北部)など海外からの引き揚げ者や遺族の話を聞くたびにそう思う。「私の心の中で、それまでの人生がまるでがれきのように音を立てて崩れました」。富山市の杉山とみさん(97)は釜山(プサン)港で引き揚げ船に乗った時の心情をこう話す。朝鮮半島の全羅南道で生まれ、1941年、大邱(テグ)の国民学校の教師になった。新入生の胸に創氏改名した日本名の名札をつけ、朝鮮語を禁じ、「皇国臣民ノ誓詞(せいし)」を復唱させた。給与は朝鮮人の先輩より高く、町の中心街は自宅をはじめ日本人家屋が占めた。45年夏。「植民地という幻」は砕け境遇は一変する。杉山さんが停留所でバスを待っていると、「もうここは日本じゃない」と列から追い出された。路上で会った教え子と話していると、朝鮮語で怒声を浴びた。「日本語を使うな」という意味だった。両親の郷里の富山に引き揚げ、教員生活を送った杉山さん。何度も訪韓して教え子と再会し、恩師を慕う手紙も届くが、子どもたちへの申し訳なさが今も心をさいなむ。明治期以来、日本はアジアで戦争を重ねて支配域を広げた。「内鮮一体」「五族協和」など融和を掲げる国策の内実は日本人優遇だった。収奪に苦しんだ地元の人々の憤怒は戦後、取り残されて逃げ惑う非力な民衆に向かう。岐阜県の山あい、旧黒川村(現白川町)に「乙女の碑」という石像が立つ。82年に建立されたが、由来を記すものが長年なかった。昨年、旧満州に渡った開拓団での「犠牲」を伝える碑文ができた。吉林省陶頼昭に入植した黒川開拓団。現地住民の蜂起におびえ、集団自決の声もあがるなか、生きのびるために団幹部はソ連軍に警護を依頼。見返りとして、数えで18歳以上の未婚女性15人が差し出され、将校の「性接待」を数カ月間強いられた。うち4人は性病などで命を落とし、日本に生きて帰った女性たちも誹謗(ひぼう)中傷に苦しんだ。黒川分村遺族会長の藤井宏之さん(66)は「つらい歴史を埋もれさせず、その上に私たちの今の暮らしがあるとの思いを共有し、二度と繰り返してはならない戦争の悲劇を後世にも伝えたい」と話す。満蒙開拓団をはじめ大勢の弱き民が戦後に死んだ。国策がうんだ「棄民」の惨禍を記録に刻む取り組みは続く。

<土地利用の変更や浚渫で解決すべき災害>
PS(2019.3.14追加): *3-1の岡山県倉敷市真備町で発生した水害も、天井川に近い小田川を浚渫し、高さのゆとりを持って水が住宅地より下を流れるようにするか、より高い場所を住宅地にしておくかするのが当たり前で、川底の方が高いのに堤防だけで住宅地を護れると考えていた点が甘すぎるという意味で重大なミスである。
 さらに、大量の水が流れれば、川が合流する地点で水が氾濫するのも当たり前であるため、今回の住宅地の水没は起こるべくして起こったと言わざるを得ない。そのため、高架鉄道が被害を受けなくて済んだのはよかったが、吉備真備を由来とする真備町にふさわしい先進的な減災型の街づくりに変更すべきで、復旧で終わらせるべきではない。
 また、浚渫が必要な川やダムは、実は日本全国に存在し、人口減するのなら考え直せる街づくりも多いため、無駄遣いなどせずに本当に必要なことに使って欲しいわけである。なお、*3-2のように、積水ハウスが、屋上に設置した太陽光パネルや家庭用燃料電池で発電し、断熱効果の高いサッシなどを使って、各戸のエネルギー消費と発電量が均衡した全戸ゼロエネのマンションを作ったそうだが、どうせ新しい街づくりをするのならゼロエネを標準にしたい。


   2018.7.14毎日新聞     2018.7.9朝日新聞    2018.7.10News24

(図の説明:左図のように、今回浸水に遭った場所は、ハザードマップで浸水想定エリアとされていた地域だが、それに対して根本的対処をしていなかったというのは、江戸時代以下ではないか? そして、中央と右図のように、想定どおり浸水したわけである)

*3-1:https://blog.goo.ne.jp/kokakuyuzo/e/6d60d424cafc3d7c30baf921ec457bd7 (Goo 2018.7.7) 水害に襲われている岡山県倉敷市真備町について
 広大な地域が水没した真備町です。WIKIをお読みください。真備町がこのような規模の災害に見舞われたことは記憶にありません。テレビの映像に出てくる高架線路は、井原鉄道井原線です。国鉄が建設を進めていたのですが中断したため、第3セクターとして建設しました。総社駅〜神辺駅(広島県)間を、今回決壊した小田川沿いに走っています。高架のため大きな被害を受けなくて済みそうです。真備町の町名の由来は、遣唐使の吉備真備です。小説家の横溝正史も滞在していました。岡山県の三大河川は、東から吉井川、旭川、高梁川です。北の中国山地に源流がある三川です。ただ、小田川は西から東に流れ高梁川に合流する県下では珍しい流れを持つ川です。その合流地点が今回の水没地域となります。小田川は天井川に近かったのだと思います。そのため水が掃けにくい土地ですが、近年開発が進んで、ロードサイドショップも増えました。それが被害を大きくしてしまったと思います。隣接する総社市の経済圏です。なぜ倉敷市と合併したのか理解できないところがあります。簡単に紹介させていただいた真備町、住民の皆様の無事をお祈りいたします。

*3-2:http://qbiz.jp/article/150297/1/ (西日本新聞 2019年3月14日) 全戸ゼロエネのマンション公開 積水ハウス、全国で初めて
 積水ハウスは14日、太陽光発電や省エネなどを組み合わせ、各戸のエネルギー消費と発電量が均衡した「ゼロエネルギー」の分譲マンション「グランドメゾン覚王山菊坂町」(名古屋市)を報道陣に公開した。全戸で国のゼロエネルギー基準を満たす全国初のマンションとなる。屋上に設置した太陽光パネルや、家庭用燃料電池(エネファーム)で発電し、断熱効果の高いサッシなどでエネルギー消費を約3割減らす。余剰電力は中部電力に販売する。光熱費は平均的な使い方で年間約6万円と通常の約3分の1になる見通し。地下1階地上3階建てで全12戸。全戸売約済みで、価格は約7千万〜1億8千万円。4月に入居が始まる。電気やガスなどのエネルギー収支が実質ゼロになる住宅は「ゼロエネルギーハウス(ZEH)」と呼ばれる。積水ハウスはZEHの一戸建てや賃貸アパートを手掛けてきた。マンションは戸数に対し太陽光パネルを置ける屋根面積が小さく、国の基準を満たすことが困難とされていた。発電効率を高めるなどして実現した。

<本質を見失うのは何故か?>
PS(2019/3/14追加):*4-1のように、東日本大震災後8年が過ぎても仮設住宅で約5千人が暮らしているそうだが、阪神・淡路大震災でも仮設は復興住宅の整備等により約5年で役割を終えた。それから16年後に起こった東日本大震災は、震災にも慣れた後の出来事であるため、3年以内に仮設を出られるようにすべきだったと思う。なお、原発事故後に帰還困難になるのは仕方ないが、移住できる土地も多いため、なるべく早く終の棲家を見つけて正常な生活に入るのが、身体的・精神的健康のためである。
 また、*4-2のフクイチ事故を東電の経営者が本当に予見できなかったかについては、元原子力規制委員の島崎東大名誉教授(地震学)が証人として出廷し、「①長期評価は福島県を含む太平洋岸に大津波の危険があるとしていた」「②長期評価を受けて東電が津波対策をしていれば、原発事故は起きなかった」等を明言しておられる。そして、歴史上も、大地震や大津波が一定周期でこの地域を襲っているという記録が残っており、東電の経営者は「予見できたが、リスクを甘く見て不都合なことには目をつぶっていた」というのが本当のところだろう。実際には、*4-3のように、福島第1原発を襲った津波は高さ14~15メートルで、5.7メートルという設計当初の想定の3倍だった。仮に直ちに原発を移転したり、防潮堤を高くしたりする余裕がなかったとしても、非常時の電源は濡れない高い場所に置き、使用済核燃料はよそにもっていくくらいの工夫があってよかったと思われる。

*4-1:https://www.kobe-np.co.jp/column/shasetsu/201903/0012144851.shtml (神戸新聞 2019/3/14) 住まいの再建/誰も取り残さない支援を
 丸8年が過ぎても、東日本大震災の被災地では、プレハブ仮設住宅で約5千人が暮らす。自治体は早期の解消を目指すが、4月以降も597世帯、1300人が残る見通しだ。阪神・淡路大震災では、仮設に約4万7千世帯が入居し、復興住宅(災害公営住宅)の整備などに伴い5年で役割を終えた。原発災害にも見舞われた東日本はより多くの困難を抱える。住まい再建も同様だ。時間がたてば、はさみを開いたように被災者間でさまざまな格差が開く。阪神・淡路でも指摘された教訓を踏まえ、一人一人に寄り添った支援を今後も息長く続ける必要がある。とはいえ支援制度にも隙間がある。枠組みから漏れる人がいないよう、目を凝らし、絶えず見直しを進めねばならない。東日本では、計画された災害公営住宅約3万戸の9割以上が完成した。ハード面の事業は「完了」に近づいている。にもかかわらず仮設に残る人がいるのは、失った家に代わる「ついのすみか」がいまだに見つからないからだろう。津波被害の地域では、土地かさ上げや区画整理などで住宅再建が遅れがちだ。仮設入居者の3割は高齢者で、その間の生活に窮する人もいる。希望を失わないよう、きめ細かなサポートや見守りが欠かせない。一方、損壊した自宅に住み続ける「在宅被災者」も、支援制度の隙間に置かれた存在だ。今もガスや水道が止まった状態で生活している人がいる。だが「一部損壊」の判定では、住宅再建に公費を支給する被災者生活再建支援法の対象とされず、改修もままならない。年金暮らしの高齢世帯などは自力での対応が困難だが、損壊しても自宅があるので災害公営住宅には入れない。そうした状況を放置すれば、復興の流れに取り残される恐れがある。兵庫県は、災害の規模などに応じて一部損壊に支援金を支給している。東日本でも独自で支援制度を導入する動きが見られたが、自治体間で対応にばらつきがある。国レベルの法制度見直しは大災害のたびに課題とされてきた。国会で真剣に議論すべきだ。

*4-2:https://www.kahoku.co.jp/editorial/20190314_01.html (河北新報 2019年3月14日) 東電公判が結審/本当に予見できなかったか
 東京電力福島第1原発事故を巡って、業務上過失致死傷罪で強制起訴された東京電力の旧経営陣3人の刑事裁判が、東日本大震災から8年を経た12日、東京地裁で結審した。判決公判は9月19日に開かれる。最終弁論で弁護側は「事故の予見可能性はなかった」として、被告の勝俣恒久元会長(78)、武黒一郎元副社長(72)、武藤栄元副社長(68)の無罪を主張した。検察官役の指定弁護士は3人に禁錮5年を求刑している。弁護側が主張してきたように、果たして東日本大震災の巨大津波を東電は予見できなかったのだろうか。37回を数えた公判を通じて、最大の争点となったのはこの点だ。検察の不起訴、検察審査会の議決、再議決を経て2017年6月、この裁判は始まった。公判には東電社員や学者ら計21人が出廷。指定弁護士側、弁護側が事故の予見可能性などを巡って激しく対立した。その過程でさまざまな事実が明らかになっている。18年5月に開かれた第12回公判には、元原子力規制委員の島崎邦彦東大名誉教授(地震学)が証人として出廷。02年、国の地震調査研究推進本部(地震本部)が公表した長期評価と、その後の研究成果を反映させた改定作業について詳細に述べた。長期評価は福島県を含む太平洋岸に大津波の危険があるとし、島崎氏は「長期評価を受けて東電が津波対策をしていれば、原発事故は起きなかった」「長期評価は当然津波に備える必要があると示している」と明言した。1年8カ月余り続いた公判で証言などから浮き彫りになったのは、電力事業者として東電が安全に細心の注意を払っていれば、やはり事故は防ぎ得たという当然すぎる事実だろう。では、なぜ津波対策は先送りされたのか。地震や津波に対応する部門を担当していた東電関係者が病気のため公判で証言できなかったのが惜しまれる。第24回公判で検察側が読み上げたこの関係者の調書には、経営を優先させ津波対策を先送りさせたと受け取れる記述があったからだ。もちろん、こうした証言の数々が被告3人の刑事責任に直ちに結びつくとは容易には言えない。巨大津波や原発事故の予見可能性、結果の回避可能性の有無などを含め今回の裁判の行方に関しては、法律の専門家でも評価は大きく分かれる。東日本大震災で福島県は他県より格段に多い2250人の震災関連死を数えた。同県内、県外への避難者は今も4万1000人を超える。福島第1原発事故は豊かな海と県土を汚染し、住民にこれほど悲惨な犠牲を強いている。裁判の結果はともかく、最終意見陳述で被告3人のいずれからも真摯(しんし)な謝罪や反省が聞かれなかったのは、極めて残念だと言っておきたい。

*4-3:https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0904K_Z00C11A4000000/ (日経新聞 2011/4/9) 福島第1原発を襲った津波、高さ14~15メートル 想定の3倍
 東京電力は9日午後、東日本大震災で福島第1原子力発電所を14~15メートルの津波が襲ったことを明らかにした。高台に設置された1号機から4号機までの原子炉建屋やタービン建屋を含む主要建物エリアのほぼ全域で高さ4~5メートルまで浸水しており、その状況などから判断したという。同社は、土木学会の津波の評価指針に基づいて津波の高さを想定。福島第1原発に到達する波の高さを5.7メートルとして原発を設計していたが、震災に伴う津波は約3倍の高さに到達していたことになる。一方、福島第2原発には6.5~7メートルの津波が到達したが、第1原発よりも敷地自体の高さが約2メートル高く、主要建物エリアの浸水高は最大でも2~3メートルにとどまった。第1原発の5、6号機も1~4号機の主要建物エリアに比べ、約3メートル高台にあり、比較的被害は少なかった。同日、記者会見した同社の武藤栄副社長は「土木学会の評価に基づいて津波の高さを想定したが、結果として想定以上の津波が来た」と説明。「今回の経験を踏まえ、津波の評価を再度検証する必要がある」と述べた。

<現場からの多くの記録の重み ← リケジョは感傷に終わらない>
PS(2019年3月15日追加):*5-1のように、沖縄では、沖縄戦で亡くなった沖縄県内の旧制師範学校・中等学校21校の学徒の人数を記した説明板が摩文仁の平和祈念公園内に完成したとのことだ。沖縄県では、*5-2のように、1945年3月に沖縄師範女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人、教員18人の計240人が陸軍病院に動員されて負傷兵の看護に当たり、3カ月間で136人が犠牲になったことを、1989年に両校の同窓会が「ひめゆり平和祈念資料館」を設立し、2004年からは元学徒の証言映像も加えて説明している。私は、他地域でも、亡くなった理由とその背景をできるだけ正確に記載することによって、単なる慰霊ではなく統計データとして政策や意思決定過程の欠陥に関する分析を可能にすると考える。

*5-1:https://ryukyushimpo.jp/news/entry-888960.html (琉球新報 2019年3月15日) 戦没全学徒 人数説明板除幕 1984人の実相 次世代へ
 沖縄戦で犠牲になった県内旧制師範学校・中等学校21校の学徒の人数を記した説明板が糸満市摩文仁の平和祈念公園内に完成し、14日に除幕された。10代の学徒が戦場に駆り出され、多くが犠牲となった事実を伝える「全学徒隊の碑」の横に設置した。21校の元生徒らでつくる「元全学徒の会」のメンバーらは、亡き学友をしのび「戦争の実相を伝える指標になる」と次世代への継承に思いを新たにした。説明板には同会の調査によって各校の戦没者数がそれぞれ記されており、21校で計1984人に上る。縦約90センチ、横約120センチで、約2メートルの2本の柱に支えられている。「学徒の戦没者数を記し、恒久平和を祈念する」などと記した。除幕式には約100人が参加した。平和宣言で同会共同代表の與座章健さん(90)は「(説明板は)沖縄戦の実相を如実に伝える効果的な指標となり、恒久平和のとりでとなるだろう」と完成を喜び「戦争の惨劇を二度と繰り返してはならない」と述べた。県子ども生活福祉部の大城玲子部長は「多くの方々の目に留まり、平和を希求する沖縄の心を深く理解する契機となることを切に願う」とする玉城デニー知事のあいさつを代読した。県は2017年3月14日に平和祈念公園内に「全学徒隊の碑」を建てた。石碑には21校の名前などが刻まれているが、犠牲者数には触れていない。21校の元生徒が18年4月に「元全学徒の会」を結成し、犠牲者数も記すよう県に求めていた。

*5-2:https://kotobank.jp/word/%E3%81%B2%E3%82%81%E3%82%86%E3%82%8A%E5%AD%A6%E5%BE%92%E9%9A%8A-612562 (朝日新聞 2016.5.3) ひめゆり学徒隊
 1945年3月、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人、教員18人の計240人が陸軍病院に動員され、負傷兵の看護に当たった。米軍の攻撃を受け、本島南部に撤退。約3カ月間で136人が犠牲になった。両校の同窓会は89年、ひめゆり平和祈念資料館を糸満市に設立。2004年に展示内容を一新し、元学徒の証言映像の上映が加わった。

<高齢者の見守りついて>
PS(2019年3月16、18日追加):*6-1の集合住宅が高齢化するのは、災害公営住宅が先を行っているかもしれないが、そこに限らず日本中どこにでもあることだ。その中で高齢者の閉じこもりや孤立を防ぐためには、共同食堂で安くて充実した朝・昼食を出し、出て来ない人にだけ連絡する方が効率的で、身体的・精神的に来ることができなくなった人は「要支援」になるだろう。しかし、洗濯機を皆で使うと免疫力が低下している高齢者は特に感染が起こったり、それを防ぐためのマナーが大変だったりするため、洗濯機を共有するのに私は反対で、江戸時代の長屋でもたらいは共有ではない。そのため、いろいろな背景の高齢者が楽しめるよう、国会中継から映画・芸能まで幅広く受信できる複数のテレビや新聞・雑誌を置くなど、人が行きたくなる交流スペースを作るのがよいと考える。そして、これらを「○○社寄贈」「○○社協賛」等と書いて企業の寄付で行えば、その企業は社会的貢献をする企業だというイメージを作れるわけだ。
 なお、いろいろなことを実現するには労働力が必要だが、*6-2のように、外国人労働者の健康や報酬などの条件が決まり、受入準備はできつつある。
 さらに、信濃毎日新聞が、*6-3のように、「①人手不足に対処するため、外国人労働者の新たな在留資格が設けられ、運用の詳細を定めた政省令が公布された」「②各地の説明会で詳細について『検討中』とする場面が目立った」「③新制度では業務内容に共通性がある場合は転職を認めているので、賃金の高い都市部に集中する可能性がある」「④外国人労働者受入は、現状の検証と改善が先だ」等を記載している。このうち④については、1995年前後に私が経産省に外国人労働者受入を提案したが、高度専門職以外は技能実習生か留学生か日系人という中途半端な形でしか受入が実現しなかったため、今回の労働者としての受入拡大は一歩前進だと考える。そして、2005~2009年の衆議院議員をしていた期間に、私は佐賀県を廻って人手不足について陳情を受けたり、実際に見て納得したりしていたため、新たな在留資格を作る前に立法事実があるのだ。また、長野県も農業等に多くの外国人労働者を雇用していると聞いている。③については、外国人といえども過度の拘束をするのは人権侵害である上、母国に送金することが目的であれば所得から生活費を差し引いた残額が重要で、求められている場所にしか仕事がないため、平均賃金が高いからといって都市部に集中するとは限らず、地域の本気度によるところが大きい。そして、②については、何でも最初から唯一の完全な解があるわけではなく、地域の実情に応じた工夫もあるため、使い勝手の悪い点は次第に改善していけばよいと思われる。


   2018.11.14      2018.7.23      2019.1.24    2019.3.15
    朝日新聞       東洋経済       朝日新聞     ロイター

(図の説明:現在は、左図のような資格で、2017年に128万人の外国人労働者が就労していた。しかし、人手不足のため、左から2番目の図のように「特定技能」という資格を作って5年間で35万人まで新たに受け入れることとなり、詳細を定めた法務省令・政令が右図のように公布された。なお、右から2番目の図のように、外国人労働者が大都市に集中することを懸念する声が多いが、仕事や住居がなければ外国人も生きていけないため、大都市が受け入れを自粛しなくても、外国人労働者はよい仕事や住居のある地域に住むことになると思われる)

*6-1:https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20190316&ng=DGKKZO42556560W9A310C1CC1000 (日経新聞 2019年3月16日) 復興の実像(2)介助・共助、需要高まる 東北3県、復興住宅の高齢化率42.9%
 2月中旬、宮城県南三陸町。災害公営住宅「志津川東復興住宅」に隣接する施設「結の里」にはひきたてのコーヒーの香りが漂い、恒例のパン販売に人々が集まっていた。「ここで皆とおしゃべりするのが日課。楽しいね」。同住宅で一人暮らしをする女性(84)は笑う。結の里と同住宅はウッドデッキで結ばれ、住民が毎日気軽に立ち寄る。同住宅は住民の6割近くが65歳以上。孤立を防ごうと2018年4月、町の社会福祉協議会が結の里を開いた。デイサービス施設、交流スペースや芝生広場を併設し、周辺の復興住宅の住民や親子連れも集まる。一般に若い世代は自宅を再建できるため、復興住宅の住民は高齢者が多い。岩手、宮城、福島3県で500戸以上の復興住宅を整備した自治体を対象に入居者に占める65歳以上の人の割合(高齢化率)を調べた。18年10月~今年3月時点で岩手46.2%、宮城42.2%、福島42.6%。3県の平均は42.9%だった。18年版「高齢社会白書」によると、日本の総人口の高齢化率は27.7%。3県も人口全体では27.2~31.9%だ。復興住宅は県全体より10ポイント以上高い。高齢者が多いほどきめ細かなケアが必要になる。だが、志津川東復興住宅の自治会役員、佐竹一義さん(70)は「イベントがあっても全員が出てくるわけではない。高齢化がさらに進めば自治会活動もどこまでできるか不安だ」と語る。同住宅では平日の昼間、社協の生活援助員(LSA)4人が見回りをする。入居開始当時は6人常駐していたが、18年から2人減った。郵便物はたまっていないか、定期的に外出しているかなどに気を配る。「私たちがいなくなっても住民にバトンを渡し、支え合えるようにしたい」とLSAの三浦美江さん(53)。宮城県がまとめた17年度の調査では、復興住宅に入居する要介護・要支援認定者に占める介護サービス利用者の割合は72%。2年前から10ポイント上昇し、生活介助のニーズも高まっている。福島県では高齢化率の高さを逆手にとった試みが軌道に乗る。相馬市が市内4カ所に建設した「相馬井戸端長屋」の入居者平均年齢は78歳。「助け合って暮らせるように」と入居対象をあえて60歳以上とした。各棟の12世帯それぞれにトイレと風呂、台所があるが、洗濯機を置くスペースはない。昔の長屋の井戸のように洗濯機を皆で使うようにし、畳や共同食堂も備えた。毎日昼時には地元NPOが配達する弁当を食堂で食べる。NPOスタッフの反畑正博さん(68)は住民が体調を崩した人のため病院を手配する姿を見た。「日々コミュニケーションを取り、励まし合って暮らしている」と説明する。復興住宅で孤立死が相次いだ阪神大震災などの教訓を踏まえ、東日本大震災の復興住宅では様々な工夫がこらされた。それでも安心な暮らしには住民の共助が欠かせない。国立研究開発法人・建築研究所の上席研究員で、復興住宅に詳しい米野史健さんは「復興予算でLSAなどが手助けできるうちに、住民同士で支える仕組みの下地を作ってほしい」と話す。

*6-2:http://qbiz.jp/article/150394/1/ (西日本新聞 2019年3月16日) 外国人就労、報酬は日本人と同等以上 政令・省令公布
 政府は15日、特定技能の在留資格を創設し、外国人労働者受け入れを拡大する新制度の運用の詳細を定めた法務省令や政令を公布した。健康であることを資格取得の要件とし、受け入れ先に日本人と同等以上の報酬とする雇用契約を結ばせることなどを定めた。施行は新制度を盛り込んだ改正入管難民法と同じ4月1日。新制度に関する全ての法規定が整備された形となった。新制度は一定技能が必要な特定技能1号、熟練技能が必要な同2号の在留資格を創設。1号は介護など14業種、2号は建設と造船・舶用工業の2業種で受け入れる。新設の特定技能基準の省令では、報酬は日本人と同等以上の額とし、不正を防ぐために預貯金口座に振り込むと規定。法務省によると、報酬額は受け入れ先の賃金規定に基づく。規定がない場合、受け入れ先で同じ業務に就いている日本人の報酬額を証明する資料を使ったり、似たような業務をしている日本人と比較したりして、報酬額の妥当性を判断する。上陸基準の省令を改め、特定技能の外国人は18歳以上で、健康状態が良好であることを基準とした。母国で血液や胸部エックス線などの検査を受けてもらい、安定的に働けると医師が診断したかどうかを確認する。

*6-3:https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190318/KT190315ETI090002000.php (信濃毎日新聞 2019年3月18日) 外国人受け入れ 現状の検証と改善が先だ
 円滑に始められるのか、不安が残る。外国人労働者の受け入れを拡大する新制度は、運用の詳細を定めた政省令がようやく公布された。4月の施行まで半月を切っている。準備の遅れは明らかだ。人手不足に対処するため、新たな在留資格を設けた。高度な専門人材に限ってきた受け入れを単純労働分野にも広げる。建設や介護など14業種を対象に5年間で最大約34万5千人を想定する。政省令では、報酬を日本人と同等以上の額とし、不正を防ぐため預貯金口座に振り込むことなどを定めている。各地での説明会では詳細について「検討中」などとする場面が目立った。県内でも、新たな資格で従事できる宿泊業の業務に「客室清掃は含まれるのか」との質問に国土交通省の担当者が「関係省庁で取り扱いを協議している」と述べるにとどまった。心配な点は多い。一つには、賃金の高い都市部に集中する可能性がある。新制度では、同一業務や業務内容に共通性がある場合は転職を認めているからだ。政府は1月の国会の閉会中審査で、受け入れの少ない地域があれば原因を調べ、要因に応じて調整を図るとした。今国会で山下貴司法相は安価な生活費や職場環境など地方のメリットを周知していくと述べている。どこまで効果があるか、心もとない対応である。適正な処遇も課題だ。現行の技能実習制度では劣悪な労働環境が問題になっている。政府は事業所向けの「外国人雇用管理指針」を改定するものの、差別的待遇の禁止など現在の法令に合わせて適切な対応を求める内容である。共同通信が全国の自治体を対象に行ったアンケートでは、市区町村の半数近くが懸念を示した。報酬水準の確保について「受け入れ企業の経営が厳しい」など否定的な見方が多い。生活支援も欠かせない。政府は外国人への情報提供や相談を一元的に行う窓口を全国100カ所に設けることにしている。これで十分か。国からの交付金は、英語や中国語など原則として11言語以上での対応を条件とする。通訳の確保にも懸念が残る。新たな資格への移行を見込む技能実習生についての調査結果もまとまっていない。日本で働く外国人は昨年10月時点で146万人に達し、過去最多を更新した。受け入れ拡大を急ぐより、現状をつかんだ上で必要な対策を検討、実施していくことが先決である。

<河道掘削などで出た土砂の活用>
PS(2019年3月25日追加):*7のように、福岡県を流れる遠賀川で過去最大規模の河道掘削が行われて約400万m₃の掘削土が出るそうだが、このような非汚染の土砂を船舶で運び、原発事故被害を受けた地域で土地を造成をした上に、徹底して1~2mかぶせれば、農地として使ったり、居住したりすることもできるようになると思われる。そして、このような工事を必要とする河川やダムは多く、工事中に水辺の環境は一時的に壊されるが、全体を同時に掘削するわけではないため、完成時の生態系を考えて仕上げをすれば植生・コイ・ナマズ・メダカ・フナ等の生物は次第に戻ってくると思う。なお、現在は無思慮に作っている河川内の堤をなくし、サケやウナギのように河川と海を往来する生物が住みやすくすることも、水産業と環境のために必要だ。

*7:http://qbiz.jp/article/150430/1/ (西日本新聞 2019年3月25日) 東京ドーム3・2杯分の土砂どうする 遠賀川で防災対策、全長18キロ 採石場跡などに搬入、河川の環境保全にも配慮
 福岡県直方市の国土交通省遠賀川河川事務所が、遠賀川で過去最大規模の「河道掘削」を進めている。川岸を削り、大雨が降っても水位が上がりにくくする防災対策の一環だ。範囲は直方市や小竹町、飯塚市などにまたがる計約18キロに及び、工事により東京ドーム3・2杯分の掘削土が出る見通しという。その大量の土砂をどう処分し、水辺の環境をどのようにして守るのだろう。河道掘削は昨年4月、遠賀川下流の中間堰(中間市)付近から上流に向かって始まった。飯塚市鯰田地区までの約17キロと、支流・彦山川の一部約1キロが対象。昨年7月の西日本豪雨で、堤防決壊の恐れがあるところまで水位が上昇した観測所が複数あったことから、工事を前倒しで進めようと、中間地点の日の出橋(直方市)からも掘削に着手した。事業は2028年度ごろまで続く予定という。遠賀川河川事務所は、工事で発生する約400万立方メートルもの掘削土を有効活用する方針で、受け入れ候補の一つになっているのが宮若市龍徳地区の採石場跡だ。土地を所有する宮若市が跡地を山林に戻す考えだったことから、打診した。河川事務所は、この採石場跡に約170万立方メートルの土砂の搬入を検討している。大雨の時などに土砂の崩落は起きないのだろうか−。担当者によると、土砂を積み上げてできるのり面は崩落を防ぐため、段々畑のように段差を設け、植林する。斜面下部にも擁壁を設けるなど安全対策を講じる。有吉哲信市長は、開会中の市議会3月定例会で「市の方針に合致しており、受け入れを前提に協議を進めたい」と報告。近くに住む70代男性も「特に心配はしていない」と話す。河川事務所は残りの土砂の活用方法について、直方市とも協議に入る予定という。
    ◆ ◆ ◆
 河道掘削により、水辺の環境がどう変わるのかも気になる。遠賀川の中流域にはコイやナマズなどが生息しており、下流域の水辺ではメダカなどの小魚やフナの稚魚が確認されている。魚の産卵場にもなっている水辺では、市民団体が子どもたちに生物や環境を教える活動も行っている。河川事務所は、工事後も多くの生物が生息できるよう、河道掘削を実施した後は、川岸に自然石を置いて凹凸をつくる「寄せ石」工法を用いる計画という。西日本豪雨では、遠賀川流域10カ所の観測所で史上最高水位となり、うち5カ所で堤防が耐えられる限界の「計画高水位」を超えた。堤防の決壊は起きなかったが、支流の水が本流に流れにくくなり、内水氾濫が起きて各地で浸水した。遠賀川河川事務所工務課の川辺英明課長は「河道掘削で豪雨時の河川の水位を下げられ、住宅側に降った雨水も川に長時間流すことができるようになり、浸水被害が軽減できる」と説明。その上で「土砂を安全に処理し、河川の生態系に影響が出ないよう十分な対策を取っていく」と話している。

| 日本国憲法::2019.3~ | 12:34 PM | comments (x) | trackback (x) |

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