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北波多岸岳古窯跡の盗掘対策について




北波多岸岳古窯跡の盗掘について、対策をとってくれるようにという、
陳情がありました。

北波多村は、唐津市と伊万里市の間で、佐賀県西北部の東松浦半島
の扇の要に位置し、中世末期には、戦国大名への歩みを始めた、
「波多氏」の本拠地として栄え、数多くの遺跡が残っています。
 
波多氏は平安時代末期より肥前松浦郡を中心に活動した、嵯峨源氏と
称する「松浦党」の一員とされ、南北朝以来しだいに力を貯え、戦国時
代には上松浦党の盟主として、一時期、長崎県壱岐をもその支配下に
置くほどの勢いを示しました。

 岸岳古窯跡とはこの波多氏の居城である岸岳城(城域長約1.5kmの
大規模な山城)の周辺に分布する窯跡の総称で北波多村に皿屋窯、
帆柱窯、飯洞甕上・下窯の4窯が、相知町には道納屋窯、平松窯、大
谷窯の3窯がそれぞれ確認されています。これらは、波多氏が朝鮮半
島の陶工を招聘して築いたと伝えられ、諸説があるものの、その始まり
は1580年代頃と考えられています。なお、昨年調査した皿屋上窯をこの
中に含めると、岸岳周辺には合計8つの窯が存在したことになります。

 文禄元年(1592年)波多三河守親は、兵2千人(750騎とも伝えられる)
と共に鍋島氏の麾下として渡鮮し、武勲も挙げたとされますが、同3年
(1594年)帰国の船上で突然改易を告げられ豊臣秀吉により当主の親は、
筑波山麓に配流されたと伝えられています。これにより波多氏の庇護を
失った岸岳古窯の陶工達は各地へ離散し、唐津市の小十古窯や浜玉町
の山瀬窯などを築いたともいわれています。

この窯跡は、現在、文化財に指定されていますが、窯跡からの盗掘が絶
えず、これに対策をこうじてもらいたいというのが陳情の趣旨でした。



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