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2013.4.17 サッチャー元英首相の死を惜しむ - 同時に社会で活躍している女性に対する評価上の差別についても語ろう
  

 サッチャー元英首相は、*1、*3のように、1947年にオックスフォード大学化学科を卒業した後、弁護士になっている。これは、当時、同学科を卒業した女性に未来を約束できる適切な仕事が与えられなかったからだ聞いたことがあるが、それは、その30年後の1977年に、日本で東大医学部保健学科を卒業した後、公認会計士となって働いてきた私と状況が似ているので、前から親近感を感じていた。

 サッチャー氏の偉い点は、一つは、親の七光りではなく自分の力で首相になったことで、こういう女性はアジアにはまだ出ていない。また、何を言われようと断固として経済改革をやり抜き、英国を英国病から回復させたことも立派だ。そして、旧ソ連のゴルバチョフ氏を、「一緒に仕事ができる人」と会ってすぐに評価し、英米と旧ソ連との東西冷戦を終結に導いたことは、歴史を大きく進めた卓越した業績である。

 *2については、側近が、「ローマをつくったのはサッチャーじゃなかったからな」と答えたのは面白いが、男性の首相が亡くなった時に、このような毒舌の別れをするだろうかと、私は疑問に思った。私は、どの国も、大した業績のなかった首相でも、送る時には褒め言葉で送るので、イギリスでも、まだ信念を持った強い女性への偏見があるように感じた。また、ベテラン議員が「サッチャー氏に会った私の妻は、彼女の感じの良さに魅入られた」と振り返りながら、「閣僚との関係は決してそうではなかったよ」と真顔で語り、笑いを誘ったとも書かれているが、第三者に感じよくするのは当たり前である一方、部下に好かれることが目的の上司はいないため当然のことだ。しかし、女性上司には、リーダーシップと部下への感じの良さの両方を求めるという、男性上司には求めない矛盾した要求をつきつけている点で、イギリスもまだ本当の男女平等にはなっていないなと思い、再度、サッチャー氏の苦労に敬意を表した次第である。

*1:http://www.nikkei.com/article/DGXNASGU0800Y_Y3A400C1MM8000/
(日経新聞 2013/4/8) サッチャー元英首相死去 「鉄の女」小さな政府推進
 「鉄の女」と呼ばれ1979年から11年間、英国の首相を務めたマーガレット・サッチャー氏が8日、脳卒中のため死去した。87歳。強い指導力で国営企業の民営化や規制緩和を進め、英国経済を復活に導いた。「小さな政府」の下で経済の自由化を実現する政策はサッチャリズムと評され、他の先進国の経済改革に大きな影響を与えた。1925年、英イングランド中部に生まれた。オックスフォード大卒業後、59年に下院議員として初当選。1975年に保守党党首に選ばれ、79年の総選挙に勝って英史上初の女性首相に就任した。頻発していたストライキを規制し、肥大化した財政支出を大幅に削減した。1979年、英首相に就任した当時のサッチャー氏。その後11年間にわたって英首相を務めた。民営化を通じた競争原理の導入で活力を引き出したほか、ビッグバン(金融市場大改革)など市場に多くを委ねる大胆な改革を打ち出した。周囲の反対にあっても信念を貫き、長期低迷で「英国病」と皮肉られていた経済をよみがえらせた。1982年のアルゼンチンとのフォークランド紛争では軍艦を派遣するなど力による外交を展開。米国のレーガン大統領(当時)とは同じ保守主義者として「特別な関係」を築き、反共産主義を鮮明にした。英米の連携が旧ソ連との東西冷戦の終結に道を開いた。

*2:http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1100E_R10C13A4000000/?dg=1
(日経新聞 2013/4/11) 「鉄の女」に毒舌の別れ 英国で特別議会招集
 【ロンドン=共同】8日死去したサッチャー元英首相を追悼するための特別議会が10日、招集され、議員らはユーモアと毒舌交じりの英国流スピーチで「鉄の女」と呼ばれた歴史的宰相に別れを告げた。冒頭、キャメロン首相は「サッチャー氏は女性に対する偏見を打ち破り、英国を再び偉大な国にした」と称賛するとともに思い出を披露。サッチャー氏の命令で慌ただしく働く側近に、同僚が「ローマは一日にして成らず」と落ち着いて仕事をするよう忠告したところ、側近は「ローマをつくったのはサッチャーじゃなかったからな」と話し、何事にも性急なサッチャー氏の下で働く身の上を嘆いたエピソードで議場を沸かせた。各党の議員も次々とスピーチに立ち、特別議会は7時間以上に及んだ。閣僚に対する厳しい要求で知られたことを指摘したベテラン議員は「サッチャー氏に会った私の妻は、彼女の感じの良さに魅入られた」と振り返りながら、「閣僚との関係は決してそうではなかったよ」と真顔で語り、笑いを誘った。一方、サッチャー氏の強硬な労働組合対策などに、今も反発する労働党議員の多くは欠席した。

*3:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC (マーガレット・サッチャー)
(ポイント)1925年、リンカンシャーグランサムの食糧雑貨商の家に生まれた。1947年、オックスフォード大学の化学科卒業。1951年に10歳年上のデニス・サッチャー(en:Denis Thatcher)と結婚して法律の勉強を始め、1953年に弁護士資格を取得。なお、この当時は女権拡張について強く訴えていた。
 1959年に下院議員に初当選し、1970年からヒース内閣で教育科学相を務めた。1975年2月に保守党党首選挙が行われ、エドワード・ヒースを破って保守党党首に就任。ソビエト連邦の国防省機関紙「クラスナーヤ・ズヴェーズダ」が、1976年1月の記事で、サッチャーを鉄の女と呼び非難したが、この「鉄の女」の呼び名はサッチャー自身も気に入り、その後あらゆるメディアで取り上げられたため、サッチャーの代名詞として定着した。1979年の選挙で、イギリス経済の復活、小さな政府への転換を公約に掲げ、保守党を大勝に導いた。選挙後、女性初のイギリス首相に就任した後、イギリス経済の建て直しを図り、政府の市場への介入を抑制する政策を実施。
 1982年に、南大西洋のフォークランド諸島でフォークランド紛争が勃発し、アルゼンチン軍の侵略に対して、サッチャーは間髪入れずに艦隊、爆撃機をフォークランドへ派遣し、多数の艦艇を失ったものの2ヶ月の戦闘の結果6月14日にイギリス軍はポート・スタンリーを陥落させ、アルゼンチン軍を放逐した。サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還は、イギリス国民からの評価が極めて高い。この際、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば、国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」と述べた。イギリス経済の低迷から支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後、「我々は決して後戻りしない」と力強く宣言し、支持率は73%を記録。フォークランド紛争をきっかけに保守党はサッチャー政権誕生後2度目の総選挙で勝利し、これによりサッチャーはより保守的な経済改革の断行を行った。

| 男女平等::2011.12~2013.5 | 02:04 PM | comments (x) | trackback (x) |

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