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2014.3.1 日本女性に求められる内気で迷いの多い性格は、エンタテイナー、プロフェッショナル、勝負師、リーダーに求められる性格と矛盾しており、キム・ヨナと浅田真央の差を作ったということ
        
 金:ソトニコワ    銀:キム・ヨナ        6位:浅田真央

(1)キム・ヨナと浅田真央の差を作ったもの
 2010年のバンクーバーオリンピックでは、キム・ヨナが金メダルで浅田真央が銀メダルであり、その時点では互角だったと思うが、今回のソチ・オリンピックでは、キム・ヨナは銀メダルをとれたにもかかわらず、浅田真央はジャンプの失敗が多く、総合6位に終わってしまった。

 この結果を生んだ背景には、採点の不公正を指摘する人もいるが、私には、確かにキム・ヨナのスケートには安定感があり、浅田真央のスケートにはジャンプを跳べたことを喜ばなければならない不安定さがあって、エンタテイナーとしての実力に差があったと思う。これは、病院の例を挙げれば、医師が手術してうまくいったことを喜ぶようでは、とてもその病院に命を託せないのと同じである。

 しかし、浅田は資質があるため、その実力差が出た理由を考えたところ、*2のように、バンクーバー五輪以降、浅田は、2010~2011年の6~9月頃まで長久保裕氏をジャンプ専門のコーチにして6種類全てのジャンプの矯正に取り組み、9月から佐藤信夫コーチに師事してジャンプの矯正を続け、ジャンプを1から出直した。しかし、そのジャンプコーチは2人とも男性で、男性と女性は筋肉の付き方や強さが異なるため(これはジェンダーではなく生物学的セックスの違い)、銀メダルをとれた浅田のよさを伸ばせずに、無理な要求をして浅田のジャンプを壊したのではないかと思った。また、師事する人が次々と変わらざるを得なかったのも、技術にぶれができ、浅田にとっては時間の無駄が多かったと推測する。

(2)女性に「迷い」「涙」「情緒」を要求する日本文化も、エンタテイナー、プロフェッショナル、リーダー、勝負師の育成に逆行する
 日本人には、「韓国のキム・ヨナは、金メダルをとっても銀メダルをとっても表情が変わらないから嫌い」と悪く言う人がいるが、安定した滑りができる振付をし、終わった時にぱっと笑顔を作れるキム・ヨナはエンタテイナーであり、プロフェッショナルであると、私は思う。一方、浅田は、ジャンプで失敗を繰り返し、フリー終了後には泣き顔になって、エンタテイナーとしても失格だった。つまり、意識の差がある。

 しかし、日本のメディアは、*1のように、「もう迷わない」「なかなか寝付けなかった」というように、浅田の人格を競技が始まってからも競技に集中できない女性と表現した上、「フィニッシュで涙がたまった」とそれをよいことであるかのように書いた。しかし、何があっても、淡々としてできるだけ高い得点をとることを目指し、最後は観客に向かって笑顔を送れる人でなければ、エンタテイナーの資格はない。「親の死に目に会えないのは当然」として、いつも通りに演技を遂行する歌舞伎役者を見習うべきである。

 そして、「迷い、泣く」というのは、メディアを代表として日本人が女性に対して期待するジェンダー(社会的・文化的な女性差別)だが、これは世界では通用せず、「迷い、泣け」という要求は、エンタテイナー、プロフェッショナル、勝負師、リーダーの女性に矛盾した要求を突き付け、その成長を妨げることになるため、早急に改めるべきである。

(3)女子フィギュア・スケート競技に求めたいこと
 *3の羽生選手は、男子金メダルにふさわしい力強い技術と演技で振付にも面白さがあり、「強いスケーターになりたい」というコメントも良かったが、男子フィギュアのコスチュームは今一つだった。

 女子フィギュアの場合は、3回転半のジャンプと3回転のジャンプでは観客の見た目に差はなく、ジャンプに失敗すると見苦しい。そのため、女子フィギュアでは、難易度の高いジャンプを増やせば高得点になる配点にするよりも、バレエなどの基礎の上に柔軟で美しい舞をした方が高得点になる配点にした方が、女性の生物学的セックスの違いを活かした美しい振付になって楽しめるのにと、私は思う。

 また、子ども時代における選手選抜や選手の育て方は、裾野を広くし、良いコーチにつきやすくした上、次世代のスケーターにもオリンピックの経験を積ませるため、団体戦には個人戦に出られなかった選手を出すのがよいのではなかろうか。なお、女子フィギュア選手を育てるには、地域の私立女子小中高一貫校が、女子体操だけでなく、女子フィギュアの拠点になるのがよいかも知れない。

*1:http://digital.asahi.com/articles/DA3S10992635.html?iref=comkiji_redirect&ref=nmail (朝日新聞 2014年2月22日) (ソチ五輪)もう迷わない、跳びきった 浅田6位 フィギュア
 第14日の20日にあったフィギュアスケート女子フリーで、浅田真央がトリプルアクセル(3回転半)を決めるなど、会心の演技を披露。前日のショートプログラムが16位だったため点数が出にくい傾向にある早い順番での滑走だったが、自己最高となる142・71点を出し総合6位になった。新種目のフリースタイルスキー女子ハーフパイプでは、小野塚彩那が銅メダルに輝いた。SPで16位に沈んだ夜、浅田真央は、なかなか寝付けなかった。「今まで何をやっていたんだろう」。考え続けた。寝不足のまま、朝を迎えた。午前中の練習の表情は、どこか気が抜けていた。ジャンプの着氷でふらつき、両足をついた。「五輪の怖さを感じてしまい、体が全然動かなくて……」。佐藤信夫コーチ(72)がSPとフリーの点数配分を説明し、「まだ3分の2が残っている。気合を入れなきゃだめだ」。強く叱ったが目は覚めなかった。選手村に戻る前、佐藤コーチは静かに昔話を始めた。1980年レークプラシッド五輪。指導していた選手がへんとうが腫れて寝込んだ後、ぎりぎりの状態でフリーを迎えた。「ぶっ倒れたら、周りに叱られても必ずリンクの中まで助けに行く。倒れるまでやれ」。そう送り出した結果、会心の演技で総合8位に入った――。浅田にも優しく伝えた。「何かあれば先生が助けに行くよ」。浅田は黙って聞きながら、思った。「私は何も(病気などが)ないのに、できないということは、絶対にない」。選手村に戻った浅田は、少し寝た。赤飯も食べた。励ましのメールもたくさん見た。24選手中、出番は12番目。最終組が「指定席」の浅田にとっては、経験のない早さでリンクに乗った。演技直前の6分間練習で、体の軽さを感じた。「いける」。最初のトリプルアクセル(3回転半)。迷いのなさが、そこに向かう滑りのスピードに表れた。跳ぶ。鋭い切れで回る。着氷。今大会の女子では浅田にしかできない大技を決めた。あとは、「一つ一つプログラムをクリアしていく」だけだった。フィニッシュで上を見た。その目に、涙がたまった。「たくさんの方に支えてもらった感謝を込めた。メダルという形で結果を残せなかったけれど、自分の中で最高の演技ができた」。

*2:http://jp.ask.com/wiki/%E6%B5%85%E7%94%B0%E7%9C%9F%E5%A4%AE?lang=ja&o=2802&ad=doubleDownan=apnap=ask.com (浅田真央)
 2006年夏、コーチをラファエル・アルトゥニアンに変更し、米国カリフォルニア州レイクアローヘッドに拠点を移す。2006-2007シーズンが開幕すると、NHK杯で総合得点199.52点のISU歴代最高得点を叩き出して優勝。GPファイナルは、フリーのジャンプで2度転倒して2位に終わった。地元名古屋開催の全日本選手権では右手小指を骨折しながらも初優勝。東京開催の2007年世界選手権はSPで出遅れたが、フリーで当時のISU歴代最高得点を出して銀メダルを獲得した。2007年夏はロシアに渡り、タチアナ・タラソワのもとでバレエなどに取り組んで表現力や芸術性の強化をはかった。2007-2008シーズンのGPシリーズは2戦とも優勝し、3季連続出場のGPファイナルではSP6位から巻き返して2位となった。全日本選手権のSPで、同シーズンにミスが続いていた3回転フリップ-3回転ループを成功させる。フリーでは冒頭の3回転アクセルが1回転半になったが、2連覇を達成した。同年12月、慣れない海外生活での心労や、5月に中京大学のフィギュア専用リンクが完成し、国内で練習に専念できる環境が整ったことを理由に、練習拠点を米国から愛知に戻す。アルトゥニアンは定期的に来日することになっていたが、四大陸選手権の直前に電話で「責任を持てない」と伝えられたため、師弟関係を解消した。(中略)
 バンクーバーオリンピックでは、ショートで1度、フリーで2度の3回転アクセルに成功したものの、フリーではこれまでの試合同様プログラムに3回転ルッツと3回転サルコウを取り入れなかったことに加え、3回転フリップが回転不足となり、3回転トウループが1回転となってしまったため技術基礎点は全体の6位となったが、成功した要素のGOEと演技構成点では高評価を得て自己ベストを更新し、銀メダルを獲得した。オリンピックフィギュアスケートの女子シングルで日本人選手がメダルを獲得するのは2大会連続。オリンピック後、タチアナ・タラソワコーチを総コーチとして、日本人を軸とした新たなコーチを選任する旨の報道がなされる。世界選手権では、オリンピック金メダリストの金妍兒を破って2年ぶりに金メダルを獲得。世界選手権2度の優勝は日本人初。この年は男子でも日本の髙橋大輔が優勝し、ジュニアでも男女ともに日本人が優勝している。
●バンクーバー五輪シーズン以降
 2010-2011シーズンは6月から9月頃まで長久保裕をジャンプ専門のコーチにつけ6種類全てのジャンプの矯正に取り組む。9月から佐藤信夫コーチに師事し、ジャンプの矯正も続けた。GPシリーズNHK杯、エリック・ボンバール杯では新しく変えたジャンプに苦しみ、2大会とも表彰台に登れずGPファイナル進出を逃した。だが、1カ月後の全日本選手権では復調し、SP1位、フリー2位の総合2位となる。 四大陸選手権ではSPで冒頭の3回転アクセルが着氷に乱れたもののフリーでは成功させ、シーズンベストを大幅に更新し、安藤に次いで2位となった。2連覇のかかった、世界選手権は東日本大震災の影響により1か月先に延期、その間に被災地の惨状を目の当たりにし、「こんな時に大会に行ってもいいのだろうか?」と練習に身が入らなくなった。みかねた佐藤コーチから1週間の休養を与えられたが、重要な時期に食が細くなり、いつもより体重が4・5kg減少した。大会本番では佐藤コーチから3回転アクセル回避を提言されたが、浅田は自分の信念を貫き通した。結果はショート7位、フリー6位の総合6位に終わった。(中略)2011-2012シーズンはGPシリーズ初戦のNHK杯で2位、ロステレコム杯では日本選手最多となるGPシリーズ8度目の優勝を果たし、3季ぶりにGPファイナル進出を決めた。だが、カナダでのGPファイナル開幕直前、以前から体調不良だった母親の健康状態が悪化したとの日本からの連絡を受けて帰国、ファイナルを欠場した。その後母は肝硬変のため死去、48歳没。浅田はその死の際に間に合わなかった。母親の葬儀翌日の12月13日から練習を再開し短期間の調整で臨んだ全日本選手権では、2年ぶり5度目の優勝を果たした。2013年4月、ソチ冬季オリンピックのシーズンを限りに引退する意向を表明した。(以下略)

*3:http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG25032_V20C14A2000000/?dg=1 
(日経新聞 2014年2月25日)フィギュア羽生「最高の結果に誇り」 選手団が帰国
 ソチ冬季五輪に出場した日本選手団が25日帰国し、東京都内で記者会見を開いた。フィギュアスケート男子シングルで金メダルに輝いた羽生結弦選手(19)は「最高の結果を持って帰れて誇りに思う。五輪チャンピオンにふさわしい強い人になりたい。(3月の)世界選手権に向けて早く練習したい」とさらなる飛躍を誓った。会見には羽生選手らメダリスト5人が出席。長野五輪のメダル10個を上回るという目標には届かなかったが、日本選手団は8個のメダルを獲得。橋本聖子団長は「(東京五輪に向けて)大きな希望を見いだすことができた」と振り返った。

| 男女平等::2013.12~2014.6 | 05:01 PM | comments (x) | trackback (x) |

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